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観察映画とは (想田和弘著 『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』 (講談社現代新書)より抜粋)
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観察映画とは (想田和弘著 『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』 (講談社現代新書)より抜粋)
観察映画とは、簡単に言えば、撮影前に台本を作らず、目の前の現実を撮影と編集を通じてつぶさに観察し... 観察映画とは、簡単に言えば、撮影前に台本を作らず、目の前の現実を撮影と編集を通じてつぶさに観察し、その過程で得られた発見に基づいて映画を作るドキュメンタリー制作の方法論である。出来上がった映画には、ナレーションや説明テロップ、BGMなどを基本的に使用しない。したがって、それは方法論であると同時に、表現形式=スタイルであるともいえる。『選挙』、『精神』、『Peace』といった僕の作品は、すべてこの「観察映画」の方法論と形式にのっとって作られている。 とはいえ、それは僕が一から考えたものではない。 観察映画の源流となっているのは、1960年代にアメリカで勃興した「ダイレクトシネマ」と呼ばれるドキュメンタリー運動である。それは、ナレーションなどの力を極力借りずに、撮れた映像と現実音ですべてを直接的に(=ダイレクトに)語らせる手法である。 * * * では、「観察」をどう再定義するのか。