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木崎正法寺城
木崎正法寺城の詳細は不明である。承応年間(1652~55)に正法寺が退転したことにより、その跡地... 木崎正法寺城の詳細は不明である。承応年間(1652~55)に正法寺が退転したことにより、その跡地に同寺の寺域内鎮守であった山王権現が祀られ、現在の日吉神社へと続いていく。 南北朝期、伯耆の山名時氏はたびたび京を脅かすようになった。その侵攻ルートは海岸線を進み、但馬を南下し丹波へと続く。南朝と北朝とで一進一退が続いていた中、延文元年(1356)越前の斯波高経が北朝に帰順したのを機に、足利尊氏は山名時氏、足利直冬の掃討を開始した。手始めに実施したのが山名時氏の侵攻ルート上にある但馬国内の南朝方の諸城の攻略であった。 伊達朝綱などの活躍により、温泉城(春来城)、宿南城に続いて、海岸部から円山川流域の中枢部への連絡路上にある八代城、木崎性法寺が次々と陥落していった。 後の長享二年(1488)、播磨に攻め込んだ山名政豊が但馬に敗退してきた際に、木崎城城主田公豊職、新左衛門らは政豊をしばらく正法寺に住