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戦後59年 語り継ぐ戦争 十勝の体験者たち△1▽
満州引き揚げ 極限のつらさ忘れない 幼子2人連れ生死のはざま 平山年子さん (84)帯広在住 「ちょう... 満州引き揚げ 極限のつらさ忘れない 幼子2人連れ生死のはざま 平山年子さん (84)帯広在住 「ちょうどこの抱き具合が、あの時のわが子とそっくりで、学校に“戦争の悲劇”を語りに行くときは、いつも持っていくんですよ」。84歳になる平山年子さん(帯広市在住)は、くたびれたカエルの人形を胸に抱きながら、語り始めた。 夫と音信不通に 満州鉄道勤務の夫の元へと嫁いだのが1942年で、生活の場は旧満州(中国東部)の安達(アンダ)だった。落ち着いた暮らしも、戦況の悪化に伴って徐々に治安が悪くなり、中国出張中の夫とは45年6月に音信が途絶えた。その時、2人目の子供を宿っていた。 終戦を知ったのは10日遅れの8月25日。旧ソ連兵が「バンザイ、バンザイ」と日本語で叫びながら進入し始め、抑圧されていた中国人や旧ソ連軍の略奪が始まり、まるで戦場だった。長女が生まれたのは5日後の8月30日だった。