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吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない!面土国王・帥升
邪馬台国九州説の有力推定地として、その名をとどろかす吉野ヶ里遺跡。吉野ヶ里遺跡は1986年からの発掘... 邪馬台国九州説の有力推定地として、その名をとどろかす吉野ヶ里遺跡。吉野ヶ里遺跡は1986年からの発掘調査によって発見された、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に広がる、弥生時代の大規模な環濠集落遺跡である。 アマチュアの歴史愛好家(史学や考古学の専門外の人たちが趣味で歴史を研究する人たち)が書くような本の多くが、吉野ヶ里は西暦300年頃まで存続していたと書いてある。こういうふうなのを見ると、「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国の時代の西暦3世紀中頃も繁栄していた」、「纏向遺跡が西暦180年頃から西暦340年頃だからこの二つの遺跡は東西で共に同じ時代に繁栄していた」という事になる。 しかし、その実態を詳しく分析してみると、吉野ヶ里は西暦300年頃まで存続していたといっても、後期の吉野ヶ里は解体・分裂の傾向にあり、途中、北内郭の大型建物といったものはあるものの、集落規模は縮小の一途をたど
2016/10/14 リンク