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浅田彰に関するf-nyoroのブックマーク (5)

  • 昭和の終わり、平成の終わり - REALKYOTO

    浅田 彰(あさだ・あきら) 1957年、神戸市生まれ。 京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。 同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。 著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。 最新のエントリー 19.05.01 昭和の終わり、平成の終わり 19.03.29 原美術館のドリス・ファン・ノーテン 19.03.07 マックイーンとマルジェラ――ファッション・ビジネスの大波の中で 18.12.07 映画のラスト・エンペラー――ベルナルド・ベルトルッチ追悼 18.11.03 トランプから/トランプへ(5)マクロンとトラン

  • 「土人」といえば浅田彰

    ウィキペディア「浅田彰」より https://ja.wikipedia.org/wiki/浅田彰 『構造と力』以来、天皇制の問題について思考し発言している。昭和63年昭和天皇が病床に就くと、多くの人が皇居を訪れ記帳した。その光景を浅田は、「連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという『土人』の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです」と発言した[6]。谷沢永一は、言論の自由は存在するから、人がそう信じているのであればどうおっしゃろうと自由だが、それなら卑しい愚かな「土人」が汗水を垂らして稼いだ収入から税務署に取られている税金で賄われている京都大学の月給で生きていくことはやめ、そして「土人」の汚らしい金で事すれば、五臓六腑が爛れて死ぬだろうから、命ながらえたいなら即刻京都大学助教授の職を辞して、自分の二の足で立って独り立ちして「土人」の世話にならず生きるべきだ

    「土人」といえば浅田彰
  • 111217_コールハース浅田対談・メモ (roundabout journal)

    会場:伊東塾(東京都港区) 日時:2011年12月17日11:30-13:30 パネリスト:レム・コールハース 浅田彰 twitterで実況する代わりにパソコンでメモりました。正確さに欠ける箇所については予めご了承頂ければ幸いです。議論の流れをつかむための参考までに。 メモ・文責:藤村 * 浅田:まずなぜこのを書くことになったのか レム:建築家同士の終わりのない競争 建築家の関係も破壊された ひとつの団体として協力することはない それがひとつの理由 直感的にクリエイティブな国家(state)は興味深い 国家と創造力は組み合わされることがない 下河辺さんによって指揮をされた 国家と建築家の間に前向きな関係があり得た 公共部門と建築家のパートナーシップ 現在の日において有効なのではないか 浅田:15年前ANY会議 建築と脱構築主義との関係としてはじまった 1995年ごろ新しい関心が立ち上が

  • 浅田彰によるフーコーの整理 - Hello, How Low?

    週刊ダイヤモンドの記事「続・憂国放談」で、浅田彰×田中康夫の対談のゲストに宮台真司が来たときのこと。http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200512/ ぼーっと見てたら、浅田彰のフーコーの権力論(と統治論)の明快な整理があったので、ちょっと長いけれど引用。 (…)ギデンズやベックは第二の近代として再帰的近代ということを言っている。それに対して、ポストモダン思想などと言われる側では、ミシェル・フーコーが考え、ジル・ドゥルーズが延長した図式、ソヴリンティからディシプリンを経てコントロールへという図式があるんですね(フーコー自身は、早すぎた晩年の講義録などを見ると、ソヴリンティ/ディシプリン/セキュリティという三幅対で、ただし歴史段階論的にではなく考えていたようですが)。ソヴリンティ(主権)とは、要するに君主権ということで、神とか王とか父とかいうような超越的

    浅田彰によるフーコーの整理 - Hello, How Low?
  • YouTube - THE WORLD OF GLENN GOULD Pt.1 of 5

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