目が覚めて隣にひとがいないことで、吸い込んだ空気がやけに冷たいように感じた。まして薔薇の花びらの散り敷かれたベッドというものは、朝日で見るにはしのびない。なにしろ白いシーツにロイヤルハイネスの淡いピンクはあまり映えないのだ。しかも、すでにしてところどころ萎れて茶色になっているのが妙に「落花狼藉」を思わせて気恥ずかしい。深紅なら、朽ちてもそれなりで気にならないのに。 まあ、それもこれも致し方ないことだ。 花が植物の生殖器であると教えてくれたのは澁澤龍彦の書物であった。思春期特有の気取りを思い返しながらベッドを出ても、踵で踏む花びらは昨夜の享楽を伝えはしない。塵芥のように摘まみあげてゴミ箱へ投げる。何故か、入らない。拾うのも癪で、そのまま部屋をあとにした。 昨日食べ散らかしたお菓子が置いたままのローテーブルのうえに、見覚えのある、女の子のような丸文字の書き置きを見つけた。 よく寝てたから起こさ
当日券は3100円 (1ドリンク付き)です。ゲンロン友の会会員証または学生証のご提示で2600円になります。※2014年4月からの消費税増税に伴い、入場料を改訂いたしました。ご了承ください。お席はチケット購入順ではなく、当日ご来場になった方から順にご案内致します。 【イベント紹介】大森望のSF喫茶、第4回はデビュー作『皆勤の徒』が『SFが読みたい!2014年版』国内篇で1位に輝き、今年第34回日本SF大賞を受賞した作家・酉島伝法をゲストに迎えます。創元SF短編賞の選考委員としてその才能を見出した大森望が、異形の怪作『皆勤の徒』の裏側に迫ります。 【出演者紹介】 大森望(おおもり・のぞみ) 1961年高知生まれ。書評家・SF翻訳家・SFアンソロジスト。著書に『21世紀SF1000』、『新編・SF翻訳講座』、《文学賞メッタ斬り!》シリーズ(豊崎由美と共著)、《読むのが怖い!》シリーズ(北上次郎
瀬名秀明(46)の3編からなる連作集『新生』(河出書房新社)は震災後の世界を描きながら、小松左京の未完の大作『虚無回廊』にオマージュを捧げた意欲作だ。人工知能を超えて人間の魂を複製する「AE」(人工実存)など、SFの巨人が作り出した大胆なアイデアを受け継ぎ、新しい未来の形を描く。 「SFは未来をつくるのだ」。『新生』の1編「Wonderful World」で瀬名はこう書いた。コンピューターサイエンスを専門とする主人公が、仲間たちと「震災後の未来」のシミュレーションを作る。そのシステムは、人々の倫理観を矢印の動きで可視化する。震災後、大嵐のように揺れた無数の矢印は、そのうち動きを失ってしまう。人々は無関心になったのだ。しかしある出来事を契機に、矢印は再び激しく揺れ始める。 倫理観、特に生命倫理に興味があった。1970年代に「試験管ベビー」と騒がれた体外受精が今では身近になったように、デザイナ
赤ちゃんの名前 年別ランキング 子供の名前ランキングを年別に集めてみました。 ご自身の生まれた年にどんな名前がランキングにあったかご覧になってみてください。 知っている名前があったり、自分の名前がのっているかもしれません。 2021年 (令和3年) 2019年 (平成31年/令和元年) 2017年 (平成29年) 2015年 (平成27年) 2013年 (平成25年) 2011年 (平成23年) 2009年 (平成21年) 2007年 (平成19年) 2005年 (平成17年) 2003年 (平成15年) 2001年 (平成13年) 1999年 (平成11年) 1997~1995年 (平成9年~平成7年) 1989~1985年 (平成元年~昭和60年) 1979~1975年 (昭和54~昭和50年) 1969~1965年 (昭和44~昭和40年) 1959~1955年 (昭和34~昭和30
キルプというのはディケンズの「骨董店」に登場する矮人の悪人のこと。老人と少女ネリの経営する骨董店を乗っ取り、ほかにもいろいろ彼らに迷惑をかける悪党の親玉であるらしい。1988年初出のこの小説では、翻訳はないということになっていたが、その数年後にちくま文庫に収録。あいにく現在(2012年)絶版中。自分も未読。で、少女ネリの薄幸ではあるが、けなげで明るい生活が描かれていて、どうやって人生の悲惨さとか苦痛から幸福を獲得するのかというのがたぶんディケンズの主題。でもって、この小説ではさらに、ディケンズの熱心な読者であるドストエフスキーの「虐げられた人々」も読むことになる。あわせて旧約聖書のイサクのスケープゴートの話もでてきる。これらの小説は、作品中の出来事に照応することもあり、書き手の少年はより重層的な思いにふけることができるわけだ。小説中ではあまり言及されることのない、イサクの話(アブラハムによ
鼎談・読書について 筒井康隆さん×丸谷才一さん×大江健三郎さん2011年2月2日(左から)筒井康隆、丸谷才一、大江健三郎の各氏=写真はいずれも麻生健撮影筒井康隆さん大江健三郎さん丸谷才一さん著者:筒井 康隆 出版社:朝日新聞出版 価格:¥ 1,365 筒井康隆さんが読書面で連載した『漂流――本から本へ』が朝日新聞出版から本になりました。筒井さんと、同学年の大江健三郎さん、このほど本をめぐる随筆集『星のあひびき』が出た丸谷才一さん。3人の作家による「読書について」の鼎談(ていだん)では、豊かで多彩な読書体験が語られました。(構成・大上朝美) ■面白い本を飛び石伝いに 筒井 大江 僕は『漂流』推薦の言葉に「面白ヒトスジの大読書家」と書きました。筒井さんは子どもの時から面白い本をつかまえる名人で、つかまえたら正面から熱中する。自分に根を下ろすよう大切にする。その後、一つ一つが書かれるものの柱に
■爆発的な想像力に感服 共通の友人だった塙嘉彦が亡くなる少し以前から大江健三郎との交際が始まっていたように記憶している。『同時代ゲーム』が出た時には率先して褒め称(たた)え、「失敗作である」という悪評が出た時にも「失敗作であることさえ度外視すれば傑作」と書いて、このフレーズは大江さんのお気に召したようだ。なんとしてもこの作品を不評から守りたくて、ちょうどSF作家クラブの事務局長になっていたので日本SF大賞の設立に奔走し、その一回目の受賞作にしようと努力したのだが、他の選考委員たちの反対で実現しなかった。そのかわり次の年度にはほとんど脅迫まがいの言辞を弄(ろう)して井上ひさしの『吉里吉里人』を受賞に至らしめたのだった。 ◇ 『同時代ゲーム』は作者の故郷である四国の谷間の村の歴史を神話化して、生地を聖地にまで高めた傑作だった。「妹よ」で書き出されるその近代史は文化人類学のトリックスターや両性具
1980年代前半は自分にとっては文学において懐かしい時で、1981年大江健三郎「同時代ゲーム」*1、1982年井上ひさし「吉里吉里人」、1984年筒井康隆「虚航船団」の初出にいあわせて、ほぼ同時に読み大いに感銘を受けたのだった。 さて、この本は上記3名の鼎談集。なぜこの3人が集まったかというと、岩波書店が大江や山口昌男、中村雄二郎などを編集者にして「ヘルメス」という季刊の雑誌を作ったためで、その創刊号にこの三人の鼎談を載せたのだった。この鼎談はほぼ2年置きに行われ、合計3回の記録がこのような本にまとめられた。 科学やビジネスの世界だと、数名の参加する鼎談やフォーラムではなんらかの同意やステートメントの発表があったり、あるいはパネリストの意見の差異などが明らかになるのだが、このような文学者による鼎談ではステートメントの発表とか同意にまでは至らないらしい。なにしろ「物語」の一語が何を示すものか
ピース [著]ジーン・ウルフ ジーン・ウルフは、まったくもって一筋縄でいかない作家である。日本でもマニアックな人気を誇る彼は、あえてジャンル分けをするならSF/ファンタジーの小説家ということになるのだろうが、フィクションに、生半可な理解や納得よりも謎と混乱を求める、全てのすれっからしの読者に、過剰なまでの満足を与えてくれる。『ピース』は、ウルフが1975年に発表した比較的初期の長編小説である。 語り手の「ぼく」は、オールデン・デニス・ウィア、アメリカ中西部の片田舎の町キャシオンズヴィル(ちなみに架空の地名)に独居する老人である。この土地の旧家の最後の末裔(まつえい)であり、裕福な実業家として人生をまっとうし、すでに引退しているらしい彼は、広大な屋敷内をうろつきながら、幼年時代から現在までの自らの過去を、とりとめもなく、むやみと断片的に、だが濃密に回想する。少年の頃に同居していた美人の叔母オ
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2014-03-23 齋藤希史『漢文脈と近代日本』より 以前、岡義武氏が伊藤博文や山県有朋の評伝の中で彼らの漢詩を紹介しているのを読んだとき、なぜ文学者でもない彼らが普通に漢詩を作ることができたのか、不思議に思ったのを覚えている。 当時と現在とでは「教養」の中身が違うということは見当がついても、具体的に彼らの教養が何に由来するかというその出処が私にはわからなかったのである。 齋藤希史『漢文脈と近代日本』(2007年)を読むと、漢詩や漢文の素養が一般的なものとなったのは、それほど古い時代からではなくて、近世の半ば以降のことであり、幕末から明治にかけて起こった「漢文脈のうねり」がいわば「近代という時代を用意した」という事情がわかってくる。 一七八七年の倹約令に始まり、老中松平定信によって足かけ七年にわたって行われたのが寛政の改革と呼ばれる一連の政策です。そしてそのうちでも、寛政二年(一七九
2014-03-23 漢詩における公と私 下定雅弘氏は、『白楽天』(角川ソフィア文庫)の解説で、唐の詩人、白楽天(772~846年)の生き方と詩風を、「兼済(けんさい)」と「独善(どくぜん)」という二つの言葉を使って説明している。 白楽天が若手の官僚として活躍していた時期に作った「新たに布裘(ふきゅう)を製(つく)る(綿入れを新しく作った)」という詩の中に、「丈夫貴兼済/豈獨善一身」という句がある。 《丈夫(じょうぶ)は兼済(けんさい)を貴(たっと)ぶ 豈(あ)に独(ひと)り一身(いっしん)を善(よ)くせんや (一人前の男は、天下の民を救うことを尊ぶのだ、 どうして、自分一人だけが快適であっていいものだろう。)》 下定氏によると、「兼済」=「兼(ひろ)く済(すく)う」とは、「広く人民を救済するという意味で、政治家として活躍すること、つまり仕事」のこと。「独善」=「独(ひと)り善
2014-03-24 漢詩文が開く窓 齋藤希史『漢文脈と近代日本』よりメモ。 明治期における漢詩漢文の隆盛を考えるにあたって、齋藤氏は今日のわれわれが見落としがちな事柄を指摘している。 ここで確認しておかなければならないのは、明治四年の日清修好条規によって、清国との往来がさかんになったことが、日本における漢詩漢文のありかたに大きな変化をもたらしたということです。考えてみれば、明治日本の開国は、アメリカやヨーロッパに対しての開国であると同時に、中国に向けての開国でもあったのですから、これは当然と言えば当然かもしれません。 明治以前、すなわち開国以前の漢詩文について見るなら、朝鮮通信使と長崎という大きな例外はありつつも、現実には、日本人の漢詩や漢文は、もっぱら日本人が読むものでした。それが、明治になって清国と改めて国交を結んだことで、清国からやってきた官僚や文人とじかに詩文を交わす機会が到
こんばんは、吉本ユータヌキです。 以前にも何度か書いたことがあるのですが、僕は今話題の会社員ブロガーです。 プロブロガーのイケダハヤトさんが"会社員ブログはつまらない"とブログ (「会社員ブロガー」は客観的に見て「つまらない」 : イケハヤ書店 )に書かれていましたが、会社を辞めてプロブロガーになったという経歴は面白いかもしれませんし、会社員は片手間のような感じに思われるかもしれませんが、読み手次第ですよね。 会社員の方は会社員が仕事を終えて書くブログの方が身近で共感もあって面白いと思います。 会社を辞めてフリーランスとしてやっていきたい方には脱サラプロブロガーの方が興味あるでしょうし、ただ一概につまらないと言われているのは癪に障るので、会社員ブロガーの視点を大事にし、会社、社会で働く人の悩み苦しみを解決できるようなタメになる記事を書きたいと思います。 上司のプライドに振り回されない為の回
メキシコ麻薬戦争――アメリカ大陸を引き裂く「犯罪者」たちの叛乱 ヨアン・グリロ著 山本昭代訳 現代企画室 2014年3月 本体2,200円 4-6判並製420頁 ISBN978-4-7738-1404-0 帯文より:グローバル化社会の影にひそむ不条理な日常。米国人のあくなき需要を満たすため、米墨国境を越える末端価格300億ドルもの麻薬。幾重にも張りめぐらされた密輸人のネットワーク。警察と癒着したカルテル間の抗争とおびただしい死者。軍隊並みの装備で国家権力に対抗するパラミリタリー。麻薬王たちの豪奢な暮らし。10 代で「殺し屋」となり、たった85ドルで殺人を請け負う少年たち…… 帯文(裏)より:メキシコとアメリカの歴史的な関係を背景に、近年のグローバル化と新自由主義の進展のひずみの中で急拡大した「メキシコ麻薬戦争」の内実を、綿密な調査に基づき明らかにするルポルタージュ。米墨国境地帯で麻薬取引と
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