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ブックマーク / www.aozora.gr.jp (147)

  • 上田敏 上田敏訳 海潮音

    [#ページの左右中央] 遙に満洲なる森鴎外氏に此の書を献ず [#改ページ] [#ページの左右中央] 大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりて あまぐもとなる、あまぐもとなる。 獅子舞歌 [#改丁] 巻中収むる処の詩五十七章、詩家二十九人、伊太利亜(イタリア)に三人、英吉利(イギリス)に四人、独逸(ドイツ)に七人、プロヴァンスに一人、而(しか)して仏蘭西(フランス)には十四人の多きに達し、曩(さき)の高踏派と今の象徴派とに属する者その大部を占む。 高踏派の壮麗体を訳すに当りて、多く所謂(いはゆる)七五調を基としたる詩形を用ゐ、象徴派の幽婉(ゆうえん)体を翻(ほん)するに多少の変格を敢(あへ)てしたるは、その各(おのおの)の原調に適合せしめむが為(ため)なり。 詩に象徴を用ゐること、必らずしも近代の創意にあらず、これ或は山岳と共に旧(ふる)きものならむ。然れどもこれを作詩の中心とし義として故(

  • 寺田寅彦 連句雑俎

    一 連句の独自性 日アジア協会学報第二集第三巻にエー・ネヴィル・ホワイマント氏の「日語および国民の南洋起原説」という論文が出ている。これはこの表題の示すごとく、日国語の根源が南洋にある事を論証し、従って国民祖先の大部分もまた南洋から渡来したものだと論断しようとするものである。この学説の当否についてはもちろん種々の議論があるであろうが、ここではもちろんそれは問題にしない。この論文の始めの序説中、日人の独創能力に乏しい事を述べた一節に、チャンバレーン博士の言ったという言葉を引いて、「この邦土で純粋に日固有というべきものはただ二つ、それは風呂桶(ふろおけ)とそうしてポエトリーである」と述べている。また「もっと意地の悪いある批評家は『だれもたぶんこの二つのどれもを召し上げたいとは思わないだろう』と言った」とある。この所説の当否もここでは問題にしない。ただこのいわゆるポエトリーがここで何を

    florentine
    florentine 2015/06/30
    なんとなしに思い出して。面白かった。
  • 作家別作品リスト:永井 荷風

    公開中の作品 浅草むかしばなし (新字新仮名、作品ID:60610) 「麻布襍記」叙 (新字新仮名、作品ID:60133) 畦道 (旧字旧仮名、作品ID:50437) 畦道 (新字旧仮名、作品ID:51970) あぢさゐ (新字新仮名、作品ID:60659) 吾橋 (新字旧仮名、作品ID:56168)     →永井 壮吉(著者) 吾橋 (新字新仮名、作品ID:60611) 雨瀟瀟 (新字新仮名、作品ID:58169) 亜米利加の思出 (新字新仮名、作品ID:60612) 或夜 (旧字旧仮名、作品ID:50438) 或夜 (新字新仮名、作品ID:60613) 一月一日 (新字旧仮名、作品ID:50275) 一夕 (新字旧仮名、作品ID:49632) 上野 (新字新仮名、作品ID:49633) 浮世絵の鑑賞 (新字新仮名、作品ID:58332) 噂ばなし (新字新仮名、作品ID:6061

  • 坂口安吾 日本文化私観

    僕は日の古代文化に就(つい)て殆んど知識を持っていない。ブルーノ・タウトが絶讃する桂離宮も見たことがなく、玉泉も大雅堂も竹田(ちくでん)も鉄斎も知らないのである。況(いわ)んや、秦蔵六(はたぞうろく)だの竹源斎師など名前すら聞いたことがなく、第一、めったに旅行することがないので、祖国のあの町この村も、風俗も、山河も知らないのだ。タウトによれば日に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑(さげす)み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。茶の湯の方式など全然知らない代りには、猥(みだ)りに酔い痴(し)れることをのみ知り、孤独の家居にいて、床の間などというものに一顧を与えたこともない。 けれども、そのような僕の生活が、祖国の光輝ある古代文化の伝統を見失ったという理由で、貧困なものだとは考えていない(然し、ほかの理由で、貧困だという内省には悩まされているのだが―

    florentine
    florentine 2015/05/21
    思わず読み返しに来てしまったよ。
  • 岡本綺堂 中国怪奇小説集 捜神後記(六朝)

    第二の男は語る。 「次へ出まして、わたくしは『捜神後記』のお話をいたします。これは標題の示す通り、かの『捜神記』の後編ともいうべきもので、昔から東晋(とうしん)の陶淵明(とうえんめい)先生の撰ということになって居りますが、その作者については種々の議論がありまして、『捜神記』の干宝よりも、この陶淵明は更に一層疑わしいといわれて居ります。しかしそれが偽作であるにもせよ、無いにもせよ、その内容は『捜神記』に劣らないものでありまして、『後記』と銘を打つだけの価値はあるように思われます。これも『捜神記』に伴って、早く我が国に輸入されまして、わが文学上に直接間接の影響をあたうること多大であったのは、次の話をお聴きくだされば、大抵お判りになるだろうかと思います」 中宿(ちゅうしゅく)県に貞女峡(ていじょこう)というのがある。峡の西岸の水ぎわに石があって、その形が女のように見えるので、その石を貞女と呼び慣

  • 岡本綺堂 中国怪奇小説集 捜神記(六朝)

    主人の「開会の辞」が終った後、第一の男は語る。 「唯今御主人から御説明がありました通り、今晩のお話は六朝(りくちょう)時代から始める筈で、わたくしがその前講(ぜんこう)を受持つことになりました。なんといっても、この時代の作で最も有名なものは『捜神記』で、ほとんど後世(こうせい)の小説の祖をなしたと言ってもよろしいのです。 この原の世に伝わるものは二十巻で、晋(しん)の干宝(かんぽう)の撰(せん)ということになって居ります。干宝は東晋の元帝(げんてい)に仕えて著作郎(ちょさくろう)となり、博覧強記をもって聞えた人で、ほかに『晋紀』という歴史も書いて居ります。、但し今日になりますと、干宝が『捜神記』をかいたのは事実であるが、その原は世に伝わらず、普通に流布するものは偽作(ぎさく)である。たとい全部が偽作でなくても、他人の筆がまじっているという説が唱えられて居ります。これは清朝(しんちょう)

  • 上田敏 上田敏訳 牧羊神

  • 辰野隆 雨の日

    三年前に亡くなった母は、いたく雨を好んだ。僕の雨を愛(め)づる癖は恐らく母から承(う)けたのであろう。いまそかりし昔、僕はしばしば母と閑話を交えながら、庭に降る雨を眺め暮したことを今もなお思い出す。 雨の日なら、春夏秋冬、いつも僕は気分が快いのだ。降りだすと、僕は、雨を眺めながら、聴きながら、愛読の蕪村句集を取り出して徐ろに読み耽る癖がある。この稀有な視覚型の詩人の視野においては、「簑(みの)と傘とがもの語り行く」道のほとりに、或は「人住みて煙壁を漏る」陋屋(ろうおく)の内に、「春雨や暮れなんとしてけふもあり」という情景も床しく、「五月雨や仏の花を捨てに出る」その花の褪(あ)せた色も香も、「秋雨や水底の草蹈(ふ)みわたる」散策子の蹠(あしうら)の感覚も、「楠の根を静かにぬらす時雨」の沈静な風趣も、悉く好もしい。 若し晴天に風が伴わなかったら、僕は必しも蒼空を詛いはしない。しかし、少くも微風

  • 光をかかぐる人々 (徳永 直)

    文学史でも印刷史でも言及されるテキストだが、現在日国内で所蔵する図書館が数十館しか無いと思われ、なかなか目にすることができない

    光をかかぐる人々 (徳永 直)
  • 柳田国男 遠野物語

    [#改ページ] この話はすべて遠野(とおの)の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨(さく)明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪(たず)ね来(き)たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手(はなしじょうず)にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減(かげん)せず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷(ごう)にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広(ちんしょうごこう)のみ。 昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻(はなまき)より十余里の路上には町場(まちば)三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少(きしょう)なること北海道石狩(いしかり)の平野よりも甚(はなは)だし。或いは新道なる

  • 三好達治 測量船

    母よ―― 淡くかなしきもののふるなり 紫陽花(あぢさゐ)いろのもののふるなり はてしなき並樹のかげを そうそうと風のふくなり 時はたそがれ 母よ 私の乳母車を押せ 泣きぬれる夕陽にむかつて 々(りんりん)と私の乳母車を押せ 赤い総(ふさ)ある天鵞絨(びろおど)の帽子を つめたき額(ひたひ)にかむらせよ 旅いそぐ鳥の列にも 季節は空を渡るなり 淡くかなしきもののふる 紫陽花いろのもののふる道 母よ 私は知つてゐる この道は遠く遠くはてしない道 [#改ページ]

  • 柳田國男 蒼海を望みて思ふ

  • 辰野隆 愛書癖

  • 作家別作品リスト:宮武 外骨

    1867~1955。香川県生。明治中期から昭和期にわたって活躍したジャーナリスト。1887年に出した『頓智協会雑誌』で、大日帝国憲法を風刺したため不敬罪で発禁となり、投獄される。その後、8万部を売ったといわれる『滑稽新聞』や『スコブル』『面白半分』『震災画報』など個性的な雑誌を次々に発行する。彼が生涯に発行した新聞・雑誌は40点以上にものぼる。また、風俗史家としての側面を持ち、『猥褻風俗史』『賭博史』の著作を自分の出版社である半狂堂・有限社から刊行したり、学者と在野の好事家を集めて明治文化研究会を結成した。東京大学法学部の「明治新聞雑誌文庫」を設立者でもある。多彩な活動ぶりから、奇人と誤解されることが多いが、戦前という時代に反骨精神を貫いた希有な人物であろう。ちなみに、「外骨」は名である。(河上進) 「宮武外骨」

  • 森鴎外 護持院原の敵討

    播磨国(はりまのくに)飾東郡(しきとうごおり)姫路(ひめじ)の城主酒井雅楽頭忠実(うたのかみただみつ)の上邸(かみやしき)は、江戸城の大手向左角にあった。そこの金部屋(かねべや)には、いつも侍(さむらい)が二人ずつ泊ることになっていた。然(しか)るに天保(てんぽう)四年癸(みずのと)巳(み)の歳(とし)十二月二十六日の卯(う)の刻過(すぎ)の事である。当年五十五歳になる、大金奉行(おおかねぶぎょう)山三右衛門(さんえもん)と云う老人が、唯(ただ)一人すわっている。ゆうべ一しょに泊る筈(はず)の小金(こがね)奉行が病気引(びき)をしたので、寂しい夜寒(よさむ)を一人で凌(しの)いだのである。傍(そば)には骨の太い、がっしりした行燈(あんどう)がある。燈心に花が咲いて薄暗くなった、橙黄色(だいだいいろ)の火が、黎明(しののめ)の窓の明りと、等分に部屋を領している。夜具はもう夜具葛籠(つづら)

  • 青空文庫 : 作家別作品リスト : 森 鴎外

    名林太郎。石見国鹿足郡津和野町(現・島根県鹿足郡津和野町)生まれ。代々津和野藩亀井家の典医の家柄で、鴎外もその影響から第一大学区医学校(現・東大医学部)予科に入学。そして、両親の意に従い陸軍軍医となる。1884(明治17)年から5年間ドイツに留学し衛生学などを学ぶ。「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」「大発見」「ヰタ・セクスアリス」などに、そのドイツ時代の鴎外を見て取ることができる。その後、陸軍軍医総監へと地位を上り詰めるが、創作への意欲は衰えず、「高瀬舟」「阿部一族」などの代表作を発表する。 「森鴎外」 公開中の作品 あそび (新字新仮名、作品ID:2595) 阿部一族 (新字新仮名、作品ID:673) 尼 (新字旧仮名、作品ID:193)     →ウィード グスターフ(著者)    →森 林太郎(翻訳者) アンドレアス・タアマイエルが遺書 (新字旧仮名、作品ID:2065)    

  • 森鴎外 魚玄機

    魚玄機(ぎょげんき)が人を殺して獄に下った。風説は忽(たちま)ち長安人士の間に流伝せられて、一人として事の意表に出でたのに驚かぬものはなかった。 唐(とう)の代(よ)には道教が盛であった。それは道士等(どうしら)が王室の李(り)姓であるのを奇貨として、老子を先祖だと言い做(な)し、老君に仕うること宗廟(そうびょう)に仕うるが如(ごと)くならしめたためである。天宝以来西の京の長安には太清宮(たいせいきゅう)があり、東の京の洛陽(らくよう)には太微宮(たいびきゅう)があった。その外(ほか)都会ごとに紫極宮(しきょくきゅう)があって、どこでも日を定めて厳かな祭が行われるのであった。長安には太清宮の下(しも)に許多(いくた)の楼観がある。道教に観があるのは、仏教に寺があるのと同じ事で、寺には僧侶(そうりょ)が居(お)り、観には道士が居る。その観の一つを咸宜観(かんぎかん)と云って女道士(じょどうし

  • 森鴎外 寒山拾得

    唐(とう)の貞観(じょうがん)のころだというから、西洋は七世紀の初め日は年号というもののやっと出来かかったときである。閭丘胤(りょきゅういん)という官吏がいたそうである。もっともそんな人はいなかったらしいと言う人もある。なぜかと言うと、閭は台州の主簿になっていたと言い伝えられているのに、新旧の唐書に伝が見えない。主簿といえば、刺史(しし)とか太守とかいうと同じ官である。支那全国が道に分れ、道が州または郡に分れ、それが県に分れ、県の下に郷があり郷の下に里がある。州には刺史といい、郡には太守という。一体日で県より小さいものに郡の名をつけているのは不都合だと、吉田東伍さんなんぞは不服を唱えている。閭がはたして台州の主簿であったとすると日の府県知事くらいの官吏である。そうしてみると、唐書の列伝に出ているはずだというのである。しかし閭がいなくては話が成り立たぬから、ともかくもいたことにしておく

  • 森鴎外 鼠坂

    小日向(こびなた)から音羽(おとわ)へ降りる鼠坂(ねずみざか)と云う坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云う意味で附けた名だそうだ。台町の方から坂の上までは人力車が通うが、左側に近頃(ちかごろ)刈り込んだ事のなさそうな生垣を見て右側に広い邸跡(やしきあと)を大きい松が一我物顔に占めている赤土の地盤を見ながら、ここからが坂だと思う辺まで来ると、突然勾配(こうばい)の強い、狭い、曲りくねった小道になる。人力車に乗って降りられないのは勿論(もちろん)、空車(からぐるま)にして挽(ひ)かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさえ、雨上(あまあ)がりなんぞにはむずかしい。鼠坂の名、真に虚(むな)しからずである。 その松の木の生えている明屋敷(あきやしき)が久しく子供の遊場になっていたところが、去年の暮からそこへ大きい材木や、御蔭石(みかげいし)を運びはじめた。音羽の通まで牛車

  • 二葉亭四迷 平凡

    一 私は今年(ことし)三十九になる。人世(じんせい)五十が通相場(とおりそうば)なら、まだ今日明日(きょうあす)穴へ入ろうとも思わぬが、しかし未来は長いようでも短いものだ。過去って了えば実に呆気(あッけ)ない。まだまだと云ってる中(うち)にいつしか此世の隙(ひま)が明いて、もうおさらばという時節が来る。其時になって幾ら足掻(あが)いたって藻掻(もが)いたって追付(おッつ)かない。覚悟をするなら今の中(うち)だ。 いや、しかし私も老込んだ。三十九には老込みようがチト早過ぎるという人も有ろうが、気の持方(もちかた)は年よりも老(ふ)けた方が好い。それだと無難だ。 如何(どう)して此様(こん)な老人(としより)じみた心持になったものか知らぬが、強(あなが)ち苦労をして来た所為(せい)では有るまい。私位(ぐらい)の苦労は誰でもしている。尤も苦労しても一向苦労に負(め)げぬ何時迄(いつまで)も元気な