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ブックマーク / wwwsv1.ntj.jac.go.jp (11)

  • 死と人形 | 独立行政法人 日本芸術文化振興会

  • 大急ぎの生き写し | 独立行政法人 日本芸術文化振興会

    川面を渡る風に吹かれて誰のものとも知れぬ短冊が、生涯を浮かべたように水に浮かぶ小舟にひらひらと舞い落ちる。蛍の火が水辺のあちこちに灯り、小舟からは三味線の音が聞こえています。この浄瑠璃の冒頭はたしかに抒情的であり、とても美しいものだと言っていいでしょう。 ひらひらと舞い落ちる短冊はえにしの歌を紡ぐ歌であり、今度は恋のえにしは空から落ちてきた禍いのように物語を紡ぐことになります。この川辺でたまたま出会った阿曾次郎に一目惚れした深雪は、すでに最初から朝顔に生き写しだったのでしょうか。 阿曾次郎に、恋でぼぉーとなった後の朝顔こと深雪は、扇子に歌を書いてくれと所望します。 露のひぬ間の朝顔を照らす日影のつれなきにあわれ一村雨のはらはらと降れかし 露が乾いてしまうまでは咲いている朝顔なのだから、日の光はつれないし、どうかにわか雨でも降っておくれ、というわけです。この歌はこの劇の要であり、概念であり、

    大急ぎの生き写し | 独立行政法人 日本芸術文化振興会
  • 息をつめる | 独立行政法人 日本芸術文化振興会

    たしか日の伝統芸術についての武智鉄二と富岡多恵子の対談で、「息をつめる」という話がされていたのを読んだ覚えがあります。息をつめる、息をこらす、息をこらえる、息を殺す。息を吞み込む。傘でも飲み込むように、息を吞み込むのでしょうか。だが息をつめて、事の成り行きを見ているのはこの息ではない。違うのです。ここでは、このつめた息こそが事の成り行きをつくりだしています。事の成り行きというものは、抽象的観点からすると、音楽に似ていなくもない。今回、目を閉じて浄瑠璃を聞いていると、その「息をつめる」ということを思い出しました。 目を閉じていては人形が見えないのですから、文楽を観ていて目を閉じることがあまりよろしくないことはわかっています。でも声は目には見えないし、つめた息はもっと見えません。つめた息は聞こえるのでしょうか。普通は聞こえませんが、聞こえることがあります。つまり聞こえるのです。卓越した技芸と

  • 阿呆鳥 | 独立行政法人 日本芸術文化振興会

  • 鬼はどこにいるのか | 独立行政法人 日本芸術文化振興会

    この『奥州安達原』にも鬼が出てきます。「一つ家の段」です。 寒林に骨を打つ霊鬼、深野に花を供づる天人、風漂茫たる安達が原、隣る家なき一つ家の軒の柱はすね木の松、己が気まゝにまとはるゝ蔦は逆立つ鱗の如く… 奥州の山奥、道もわからぬ安達が原に、ぽつんとあばら屋が一軒建っています。いまで言う福島の二松のはずれあたりでしょうか。この辺には追剥ぎが出没したらしい。日は暮れかかり、誰の姿か彼の姿かもうわからなくなる黄昏時です。家の前には周囲をぼんやりと照らす高灯籠がひとつ。この陋屋には白髪の老婆が住んでいて、ついさっき道に迷いかけ、追剥ぎを怖がる旅人が一夜の宿を借りようと立ち寄ったところです。 老婆は旅人を泊めてやろうとやおら畳の上に招き入れます。そしてついに問答の末にまんまと旅人を打ち倒し、喉仏に噛みつき、いちぎって殺してしまうのです。老婆のくせに馬鹿力、一気に畳を上げると、死骸を下に蹴落とす。

    鬼はどこにいるのか | 独立行政法人 日本芸術文化振興会
  • 近松、「出口なし」 | 独立行政法人 日本芸術文化振興会

    『女殺油地獄』は身も蓋もない話です。ある意味でいまだに解決できていない、精神分析や心理学の格好の餌となるような、大昔から繰り返されてきた「家族」の不幸。これは「悪」自体を描いているのでしようか。そうでもないし、それだけでもないように思います。それにしてはずいぶんあっさりしています。例えば、「悪逆の哲学者」だった作家サド侯爵と比べればわかりやすいかもしれません。悪を体現するサドの登場人物たちは明らかにみな「倒錯者」ですが、近松の登場人物たちはそうとも言えません。 話はかなり単純です。父親とは血のつながりのない商家の放蕩息子が、義理の父に反抗し、遊ぶ金欲しさの借金のために、進退窮まって、とうとういままでお世話になっていた善良な婦人を惨殺してしまうのです。実際、芝居を見ている最中に、私の後ろの席にいたご婦人の「こんな息子やったらいらんわ」という独り言が聞こえてきたほどです。失礼ながら、この不意

  • 破れ目 | 独立行政法人 日本芸術文化振興会

    『菅原伝授手習鑑』では、歴史もそう伝えるとおり、というか、うつつなのか、権力者たちを筆頭に人々の心に巣う恐怖の夢に見入られているからなのか、菅原道真が自分を陥れた敵に対する怒りのあまり雷になって昇天する場面が演じられています。そう、京都の北野天満宮に祀られるあの天神さんです。 早良親王や、縁切りで有名な安井金比羅の崇徳天皇など、宮廷を呪詛し、空から、また地の底から京の都に災いをもたらし、この世の無責任で変わらぬ徒然を呪った、平安京にまつわる祟り神は珍しくありません。そもそも神社仏閣の役割や配置など、平安京の、いや、今も厳として存続する今日の京という町自体の風水的都市計画に思いを馳せるならば、これらの「御霊」、つまり怨霊の激しい憤怒の、さまざまな結末を抜きには考えられないくらいです。少なくとも当時の為政者たちはそう考えたはずです。 菅原道真もまた歴史に登場したそんな「御霊」のひとりなのです

  • 六波羅秘密の記 | 独立行政法人 日本芸術文化振興会

    お上が「秘密」を持つとろくなことはないですし、とんでもない事態に陥るのが常です。最後には収拾がつかなくなるか、肥大して風船がパチンとはじけるように破裂してしまうことは悠久の歴史が証していますが、私たちのほうこそ「秘密」を譲り渡してはならぬと声高に申していたのは、いったいどこの誰だったのでしょう。 どこの誰べえが言ったかはたいしたことではないですし、お上の「秘密」の話はまた別の機会に譲るとして、そもそも「秘密」がなければ探偵小説やミステリーなどというものもないですし、そればかりか身近なところでも、やんぬるかな、と言うほかはないのですが、人が生きたり破滅したり、恋をしたり別れたり、喜び、不安、絶望、諍い、人死などなど、そのようなものすべての残滓、つまり時の残り香のようなものが漂う場所である、私たちの住んでいる町自体の持つ猥雑さをあちこちで醸し出しているのもまた、ひそかにすら語られることのない「

    六波羅秘密の記 | 独立行政法人 日本芸術文化振興会
  • 素人は入門などしない | 独立行政法人 日本芸術文化振興会

    今回の文楽は『伊賀越道中双六』だったが、劇場に入る前からひとつやってやろうと考えていたことがある。虚心に浄瑠璃を聞こうと思ったのである。 浄瑠璃のことなど何も知らないドシロウトである私は、それでも今回は少し注意してドシロウトなりに浄瑠璃のことを実地で知りたいと思って席に着いた。大夫たちがどんな風に語るのかうなるのかを遅ればせの白昼夢の中で聴いていたい、というか眺めていたいと思った。大変申し訳ないのだが、観客は気楽なものである。 私がまだ意識などというものを持たない赤ん坊に近かった頃、祖父が家で長唄をうなっているのを膝の上に乗っかってよく聞いていたらしい。前回のかんげき日誌でも渡辺綱のことに触れたが、長唄がこの渡辺綱のくだりにさしかかると私はいつも決まって泣き出したようである。祖父がそれを手放しで喜んだことは想像に難くないが、この際、そんなことはどうでもいい。「情」なのか「風」なのか、私には

  • 愉しいトラウマ | 独立行政法人 日本芸術文化振興会

    京の都の夕まぐれ、一条戻り橋の向こうから衣かずきをかぶった妙齢の女性がしずしずとやって来る。平安の武将渡辺綱が橋を進みゆく。かずきの下の女が絶世の美女であることは言うまでもない。綱と女がすれ違う。と、思ったとたん、綱の太刀が抜かれ、電光石火、ピカッと光る刃がヤッと振り下ろされた。切り落とされたのは、青黒い、毛むくじゃらの太い手首。ぎゃっ、と言って振り返った女は鬼の顔に変わっていた。 子供の頃に見てしまった「光景」である。当時、家にテレビはなかったはずだし、こんなものはテレビでやっているはずがなかったし、たぶん映画だったのだろう。映画はまだカラーではなく白黒だったはずだが、なぜか鬼の手首はパートカラーのように暗く青黒かった。妙齢の美女の手首は、おまけに毛むくじゃら。そもそもこんな映画はもしかしたら存在しなかったかもしれず、「羅生門」とごっちゃになって、生臭い記憶は部分的にすり替えられ、捏造さ

    florentine
    florentine 2013/08/31
    「あるフランスの作家が言っていたように、傷はわれわれ以前に存在するのだ。芸がその「傷」でなければ、いったい何のためにあるというのか。」
  • 曾根崎人形 | 独立行政法人 日本芸術文化振興会

    夏の盛りに近松門左衛門作の『曾根崎心中』を大阪の文楽劇場で見た。 ゲーテと同じ時代を生き、古典主義とドイツ・ロマン派の間で逆さ吊りになって、そのどちらに属すつもりもなかった劇作家で詩人のハインリッヒ・フォン・クライストは、「何をやっても、ものにならなかった」などと悪口なのか、別の見方をすれば賛辞なのかよくわからない、普通に聞けば誰が言われているのか、こちらが身につまされるような紹介の仕方をされているのだが、それもそのはずで、たったひとりでゲーテに文学的決闘を挑もうとしていたこの孤高の文人は、妄想のなかでヨーロッパ最強の文学者の暗殺を成し遂げるどころか、栄光を夢見た劇作の上演も見るも無残な失敗に終わり、とうとう最後には道連れの女性を射殺した後、人がほんとうにピストル自殺を遂げてしまった。「代々甲冑の家に生まれながら武林を離れた」近松門左衛門は、それかあらぬか、凄惨な事件を当時の当節ドキュメ

    曾根崎人形 | 独立行政法人 日本芸術文化振興会
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