遠慮は「する」もの? 「させられる」もの? いまひとつ釈然としない表現に「遠慮するなよ」がある。 上司や先輩から言われたり、友だち同士でも言い合ったりするありふれた表現だけれど、冷静に考えてみると腑に落ちない。 というのも、「遠慮」というのは自発的に「する」より「させられる」ことの方が多い気がするのだ。 「いったい誰に?」と問われると、むずかしくて返答に困る。「そのとき眼前にいる人」とも言えるし、もっと広く「人は遠慮するのが望ましい」とか「出過ぎた真似ははしたない」といった文化や風潮のようなものとも言えるから、明確な相手を名指しにくい。 それでも「遠慮」はたいてい、積極的に「する」わけではなく、ある種の圧力のようなものによって「させられる」ものだと思うのだ。 あなたは、生きることに「遠慮」したことがあるか 人に遠慮をさせる有形無形の力のことを、ぼくは「遠慮圧力」と呼んでいる。普段はそれほど
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