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ブックマーク / bushoojapan.com (5)

  • 天皇に謁見するため従四位になった渡来象もいた!? ゾウと日本人の歴史

    子供から大人まで、動物園で好きなのはやっぱりゾウ。 パンダの赤ちゃんに話題を奪われがちですが、歴史サイト視点から見ますと、800万年前の化石が確認されているジャイアントパンダに比べ、ゾウはもっともっと古い5000万年前でありまして。 今回は書籍『ゾウの知恵 陸上最大の動物の魅力にせまる(→amazon)』を参考に、ゾウと日人の歴史を追っかけてみたいと思います! マンモスが発見されたのは日じゃ北海道のみでして前述の通り、最古の化石は約5000万年前の地層から発見されました。 このとき地球上に霊長類はおりましたが、人類はもちろんのこと猿人(約700万年前)すら存在しない時代。 これに対しゾウは約340もの種が繁栄していたと考えられます。 ただし現在は、アジアゾウ、アフリカゾウ、マルミミゾウの3種を残すのみで、インドゾウはアジアゾウの亜種になります。 忘れちゃならないのが、比較的最近まで残っ

    天皇に謁見するため従四位になった渡来象もいた!? ゾウと日本人の歴史
  • 家康が1000人の住民を殺した堀川城の戦い~逃げた700人は生首並べて獄門畷

    気賀を舞台に、守る今川、攻め込む徳川――。 2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』で、気賀の城=堀川城を舞台にした【堀川城の戦い】がありました。 この合戦では柳楽優弥さん演じる龍雲丸が刺され、その仲間たちも家康相手にほぼ全滅という非常にハードな内容でしたが、多くの視聴者さんたちに、こんな疑問が湧いたそうです。 結論を先に申しますと、同合戦は史実ベースのお話です。 2023年の大河ドラマ『どうする家康』では取り上げられませんでしたが、史実では永禄12年(1569年)3月27日に勃発しました。 それは一体どのような戦いだったのか? 堀川城の戦いを振り返ってみましょう。 ※以下は徳川家康の関連記事となります

    家康が1000人の住民を殺した堀川城の戦い~逃げた700人は生首並べて獄門畷
  • 黒田家ルーツに迫る意欲作『黒田官兵衛目薬伝説』目薬とクロガネの関係

    桃山堂株式会社さんより『黒田官兵衛目薬伝説』なる書籍をご献いただきました。 NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でも、若かりし頃の岡田准一君が祖父の竜雷太さんから「黒田の家は目薬から財を成していったのじゃよ」と説明されておりましたが、このエピソード、史実では疑問符を付けられております。 果たして真実はいかなるものなのか。 書の担当編集者(桃山堂)さんで、九人の執筆陣のひとりでもある蒲池明弘さんから、書籍のあらすじをご紹介していただきましたので、早速、ご報告いたしましょう。 調べてみたら興味深い話が芋づる式にNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』で、黒田家の目薬商いはすっかり有名になりました。 これが歴史上の事実かどうかについて、学術的な研究者のあいだでは否定的な見解が多いようです。 岡田准一さん演じる官兵衛は、歩行不自由の足なえの武将ですが、こちらについても史料の裏付けはなく、史実ではないのでは?と

    黒田家ルーツに迫る意欲作『黒田官兵衛目薬伝説』目薬とクロガネの関係
  • 水野忠邦「天保の改革」は最初から残念な結果が見えていた? - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    やる気があるのは結構なことです。 が、能力とかみ合っていないと空回りして、周囲に迷惑をかけることも多く、これに反骨心なんぞが加わった日には目も当てられませんよね。 現代人だけでなく、江戸時代にもそんなタイプと思しき人がおりました。 寛政六年(1851年)6月23日に亡くなった水野忠邦です。 「天保の改革」を行ったことで有名な人ですね。 江戸政権下では由緒正しき譜代大名だったが この人は家康の母・於大の方のお兄さんの血筋で、数ある水野家の中でも由緒正しい家柄でした。 当時の水野家は唐津藩(現・佐賀県)を所領としていましたが、忠邦は18歳で家督を継いだ後、幕府の中心で働きたいと考え、いわゆる「黄金色のおまんじゅう」(古い)を駆使し、どうにか江戸城・奏者番(大名と将軍の間の取り次ぎ役)の職をゲット。 しかし、この役職ではとても幕閣とは言えません。さらに出世したいと考えた忠邦は、家の事情に大きな障

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  • 三成が関ヶ原で負けたのは三成腹のせい?重圧で腹痛や下痢を発症

    慶長5年(1600年)9月15日は、日の戦国大名を東西真っ二つに切り裂いた【関ヶ原の戦い】が起きた日です。 東軍の総大将は徳川家康。 西軍は実質的に石田三成。 総勢20万を超えるともされる空前の規模の戦いであり、驚きだったのは決着スピードもそうでしょう。 これだけの大軍にもかかわらず、戦いはわずか半日で終了し、敗れた三成は伊吹山中へ落ち延び、数日後に捕らえられました。 と、惨めな最期を迎えてしまう西軍ですが、この戦いでは、三成のある病気が趨勢に影響したかもしれない――という要因があります。 今回のテーマは「三成腹(石田三成と下痢)」です。

    三成が関ヶ原で負けたのは三成腹のせい?重圧で腹痛や下痢を発症
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