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アンドロイドの人権と神さまとセカンド・レイプ - はてこはだいたい家にいる 「内心の自由」を巡ってのコメント欄の混乱が、ブコメにも波及している。 「内心の自由」とはもともと、憲法19条の「思想及び良心の自由」を下支えする概念だ。戦前の国家の思想統制に対して出てきたもので、他者の人権に抵触しない限りにおいて最大限保障されるべきことになっている。 従って「内心の自由は保障されている」と言わねばならない局面とは主として、思想及び良心の自由が国家あるいはそれに準じる権力装置によって侵害されそうになった時だろうと思う。 冒頭で引いた記事及び一連の記事の内容は、ポルノの人権侵害と「良心」を巡る議論の一つである。レイプものなど被害者が見たら傷つくであろう性的ファンタジーを、語るだけでなく、楽しんでいることへの疑義が示されている。 一連の議論を追いかけている人ならわかるはずだが、最後の一文はAntiSep
「Business Media 誠」の吉岡綾乃編集長が書いた「iPhoneやめました」が意外にも反響を呼んでいるようなので、私自身もiPhoneについて考えて見ることにしました。 私自身は、もともとSoftbankの携帯を使っていましたが、iPhoneは機種変更で入手しました。つまり、いまはiPhoneしか持っていません。 率直なところ、携帯電話とiPhoneどちらが良いかなんてことは考える余地もないほどiPhoneを気に入ってます。 ちなみにiPhoneとは発売してすぐに入手したので1年半ほどのつきあいです。 ただ、もともと私は携帯を使いこなしていたとはいえません。見る携帯サイトと言えばサッカーの速報か、乗り換え案内ぐらいでした。 携帯の入力操作はほんとに面倒で、ほとんどメールも活用していませんでした。 そんな私がiPhoneの何がそんなに良かったのか考えて見ました。 1.タッチパ
同じ新潟市在住ということが判明したので、「自問自答」のRy0さん(id:jimonjitou)と呑んできました。 ふだんはオフ会などでも少人数で長く喋ることはむずかしいのですが、この日はたった3人で6時間にわたってオタクトークしました。楽しかった! 当然、色々な話が出たわけですが、なかでも興味深かったのは、現在の若いオタクたちの実相。いまの大学では、たとえば野球や音楽の話題などに混じって、普通にアニメの話が出て来る、オタク文化の大衆化はそこまで進んでいる、ということでした。 へえ、うわさには聞いていたけれど、本当なんだ。ただ、そこで出る話題は、やっぱり薄い、『らき☆すた』とか『けいおん!』とか、だれが可愛いとか萌えるとか、そういう話がメインであり、少し踏み込んだ話をすると浮く、と。 なるほど、わかるわかる。ある意味、予想通りですね。 その話をきいて思ったのは、昔のオタクが一般人のなかで孤立
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の提示した問題のフレームは確かに興味深いのだが、同時にさまざまな異論をあげたくなるような強引な部分が存在する。それについて、少しばかりメモしておきたい。 主体性の素朴な扱い 宇野常寛の議論にひとつだけ異を唱えろといわれたなら、迷わず彼の「主体」に対する執着をあげる。これは彼の議論の根幹である動員ゲーム論から、細部であるレイプファンタジー批判にまで応用できる。彼は主体が能動的決定者であるように単純化して取り扱うが、実際のところ、主体というのは「われあり」という根源的な部分と、それが世界と向き合うことで発生する「われかくあり」という倫理=表現的部分とに分かれる。そして人間は後者の主体性を生きている、といえる。 このような主体性は、世界と自己との関係性――すなわちコンテクストの中での暫定的なものでしかないにもかかわらず、再帰的に強化されていくという性質を持つ。これを宇
ここ数年、サイエンスライターをやっていて嫌なことが立て続けに起きた。高飛車で人格が破綻している科学者にも大勢出会った。サイエンスライターを「無料宣伝係」として「使う」だけの大学教授も多い。 20年間、「科学応援団」として地道に活動してきたが、自分の中での葛藤が大きくなりすぎて、ここら辺で科学(者)のダークサイドを書かないと、もう仕事が続けられないことに気がついた。 たとえば、猫好きを公言して、ペットの殺処分をゼロにしようと努力しながら、一方で動物実験を無条件に認めるのは欺瞞だ。単に友人や知人が日常的に動物実験をやっているから黙っていただけなのであり、常に自分の心にウソをつき続けてきた。 一部の科学者や大学教授たちの、人を人とも思わないような振る舞いにも、そろそろ愛想がつきかけている。 科学は決してバラ色ばかりじゃないし、ダークサイドも描かなくてはならない。最近、そんな心境になりつつある。
講演を評価するための僕なりの基準を書きとめておきたい。学会から研究会から講演会まで、近年では様々な情報の取得が講演をベースに行われる。本来講演は手段なのであるが、行政や教育組織がただ名のある人を呼んだというだけの形骸化した講演も多々あり、僕も大学の頃からしばしば講演会や勉強会に参加して発表を聴くのだが、インスピレーションを受け取ることができるものから無料であっても時間を無駄にしたと思えるものまでさまざまであった。 今回語りたいのは舞台などの「公演」でなくスピーチの方の講演である。講演会やワークショップなど小学校から企業まで話を聞く機会と言うのは多いだろう。しかし一般の人に講演会を評価する基準は何かと聞けば「面白くて、ためになる」と客観的に評価しようのない基準に収まる。それはそれで基本であるが、お世話になった多くの大学の先生や研究機関の方々などからの話をシンプルにまとめて基準となる評価軸を作
「プログラミングとか特定のプログラミング言語とかを習得したくて色々勉強したけど、いまいち理解できた感じがしない、何がいけないのだろう、何を学べばいいんだろう」という話を聞いて思ったこと。 それって、目的が曖昧だから達成感が得られないというだけじゃないのか? 僕の今までの人生の中には「プログラミングを習得した!」と思える瞬間も「Pythonを理解した!」と思える瞬間もなかった。具体的な「Pythonで継続のある言語を実装できた!」とかならある。でも「継続の概念を完全にマスターしましたか」と言われるとそんな気はまったくしない。まだまだ先は長い。しかし僕よりはるかに継続に詳しい人たちが集まって継続に関する議論をしてたりするのを見ると、この道に明確なゴールはないことがわかる。どこまで行っても「まだ先がある」という感じが残るに違いない。 手段が間違っているのではなく、目的が間違っているんだ。「○○を
ある問題について対立している2つの立場がある。立場の正当性を巡ってお互い言い争うのだけど、それぞれの支持者と敵がますます明確になっていくだけで、話はまるでかみ合わないし、距離はどんどん遠ざかっていく。 っていうふうに見えるものごとが、以前よりずっと多くなってきているように感じる。そう思いませんか。 世界はどんどんどんどん複雑になって、つまり大きくなって、相対的に人間が小さくなっているのかなぁと思う。そして言葉の届く距離は以前と変わらないのに実質短くなっているんじゃないか、という気が少しする。 だめなものはいい。なんでいいと思うのか、よくわからないけれど。世界に対する不満や反動から「いっそだめになってしまえ」と思うのでなく、みんなが「こうするのがいいはずなんだ」とそれぞれの立場で精一杯やっている、なのにだめになっていく。そういうのがいい。「わびさび」に一致はしなくても近い感覚じゃないかなぁ。
屋根よりた〜か〜いこいの〜ぼ〜りいいい。大きいまごい〜はあ〜おとっつぁん〜。 などと鼻歌を歌いながらこいのぼり工作にいそしんでいるのは、何も幼い息子がいるからというわけではない。 底辺託児所でこいのぼり製作をしようと思っているのだが、いい意味で言えば独創的。悪い意味でいえばやりたい放題で収拾のつかないガキどものことなので、日本の保育園のように最初から目標とするモデルを設定しておいて、そこに到達できるようにあらかじめ画用紙を魚形に切っておくとか、鯉の目玉を用意しておくなどして、全員を同じゴールに導く。というやり方では無理だ。ではどのような素材を準備して各人にやりたい放題させればよいのか、酒をかっくらいながらあれこれ試行錯誤中なのである。 わたしは季節の行事などはわりとどうでもいい方だが、底辺託児所では一応ガキどもと一緒にひな人形製作もやってみたし、正月には凧なんかも作ったりした。当然ながら底
・アブダクション―仮説と発見の論理 これは絶賛すべき素晴らしい本である。人間の創造的能力、ひらめきの正体をずばり言い当てている。本当におすすめ。記号学で知られる偉大な論理学者・科学哲学者チャールズ・パース(1839~1914)の思想を一般向けにわかりやすく説明している。 アインシュタインは「経験をいくら集めても理論は生まれない」と言った。観察によってデータをいくらたくさん集めても、既存の理論の検証が進むだけである。帰納法からは斬新な新理論、イノベーションは生まれない。論証を行うのみである演繹法からも無論、新しい理論は出てこない。 パースは人間の推論には演繹と推論とアブダクションの3つの形式があるのだと指摘した。 アブダクションとは、 驚くべき事実Cが観察される しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、 よって、Hが真であると考えるべき理由がある。 という推論形式である。 説明すべ
もしもこの世から「残業」が完全になくなったら 3年ぐらい前に読んだ本を思い出した。 1980−90年代の話ですが、残業について、 「時間外・休日労働の弾力的運用が我が国の労使慣行の下で雇用維持の機能をはたしている」(1985年労働基準法研究会報告)とか、「我が国の労働慣行の実情に合うような上限設定が可能かどうか定かでない」(1992年同報告)と、雇用維持の為のコストとして恒常的な長時間労働を是認する考え方が主流でした。 需要の低下に応じて、生産水準を下げなくてはならなくなっても、バッファがあるから解雇せずに大丈夫でしょ、という。。。 まぁ、 ところが、その後、労働法政策が内部労働市場の雇用維持から外部労働市場における移動促進に徐々にシフトしていったにもかかわらず、この長時間労働哲学には疑問が呈されないまま21世紀に至っているのです。 と著者は問題視しているわけだけど。 話変わって、最近友人
たとえば10億円ぐらいするCTスキャンの機械は、カバーを外すと、 そのへんのホームセンターで売られているようなアルミのアングル材で組まれていて、 基板もむき出しで、美しさだとか、精密さみたいな感覚とは遠い。素人である自分たちが、 ユーザーとして「中身」を見ても、CTスキャンには、あんまり価値があるように見えない。 フェラーリの車についている「跳ね馬」の紋章には、けっこうお金がかかっているらしい。 紋章はその代わり、けっこういい加減な固定をされていたり、ボディーを外したフェラーリは、 内部の配線だとか、エンジンやトランスミッションの構造だとか、必ずしも工学的に 突き詰められているわけではないらしい。 素人は「中身」を重視する 以前に「家を一軒自作しました」という日記を読んだことがある。公務員の人が、 材木を削り出すところから初めて、在来工法で、2階建ての我が家を一人で作るお話。 素人が人生か
雄どもは皆阿呆の如き餅焼きじゃからの。ただな、雌もそんなことが嬉しい阿呆じゃからの。どこを見ても阿呆ばかりじゃ。 - 「狼と香辛料」より 全生物みんなアホだと賢狼ホロ様は仰っていますが、今日はそんな話だったり、違ったり。ところで無性生殖を行なう生物に関してはホロはなんと言うだろう。うーん。 ♪ 生物の基本行動原理は、自らの遺伝情報を後世に残すことだという理論があります。大雑把ですが、セックスしたいがために生物は生きている、と。それと同時に、パートナーが誰でもいいという訳ではなく、より優れた—さらにその後世にまで遺伝子を残し得るだけの力を持った子を作れるような—相手を選ぼうとする、そういう方に生物の本能は働くようです。生物の求愛行動というのは、自分が優れていると思った相手に対し、自分がどれほど優れているのかをアピールすること。クジャクの羽の美しさや、類人猿の力の誇示。自然界では皆必死だね。
ホッテントリーからすごいブクマの思考法を見つけました。 とても役に立ちそうなので必読かと思います。 社会人なら押さえておきたいフレームワーク思考 - livedoor ディレクター Blog(ブログ) http://blog.livedoor.jp/ld_directors/archives/51131574.html 【フレームワークを学んだ後】 論理的に分析ができ、説明も論理的に。 という記事そのものが、論理的説明をされてますし。 すごいんですが、なぜか使った覚えが、、、、 ビジネス書が好きだったので、これらのフレームワークは知ってたのですが ディレクターさんと違って、活用したことはありません。 自然と重要な事を優先してたとか、 たまにブログ記事の構成がこの通りになったとかはありますが、 それは結果論で、例にあるフレームワーク思考でそこにたどり着いたわけじゃありません。 もしかして社会
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