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ブックマーク / franzjoseph.blog134.fc2.com (2)

  • 批評の練習帳 マーラー10番の聴き比べ

    私は、ハイドンを除くと、ビーバーのロザリオのソナタと、マーラーの交響曲第10番全曲版を偏愛している。ロザリオのソナタはなかなか実演に接する機会がないが(以前鈴木雅明と若松夏美が数曲抜粋して取り上げたのを神戸松蔭女子大のチャペルで聴いたぐらい)、マーラーの10番は、何年かに一度はどこかで演奏されるので、注意して聴きに行っている(古くはバルシャイ指揮読響のバルシャイ版とか、スキャンダルで姿を消した金聖響指揮の神奈川フィル、広上淳一指揮の札幌交響楽団の演奏を聴いた)。今年の三月初めにインバルが大阪フィルで10番を振るのを知って早くからチケットを取っていたが、その後二月に都響でも10番を振ると知り、聴き比べてみようと思ってチケットをもう一枚取った。 10番全曲版はマーラーの交響曲の中では未だに継子扱いのところがあり、マーラー交響曲全集の中に入らないことも多い。その中でインバルは、DENON※での初

  • 批評の練習帳 漱石神話の現在

    漱石神話という言葉は、現在の漱石観を示すものとしては一般には使われていないかもしれない。通常江藤淳の『夏目漱石』が小宮豊隆の「則天去私」的漱石像を打破して以来漱石神話は消滅し、漱石は脱神話化されたということになっている節がある。漱石を私たちが礼賛するのは、神話ではなく真実だからだというわけである。しかし私は漱石神話は様々な形で継続し続けていると考える。少なくともそれが神話ではなく真実だと言うに値するほどの知的労働が、漱石の価値測定に払われている形跡はない。 最近読んだ岡崎乾二郞『抽象の力』における漱石の強引な使い方は、漱石神話の(少なくとも1980年代以来の)不変の機能ぶりを前提としないと私には理解できない。美術・建築に疎いので分からないが、私の読んだ限りこのが目指しているのは近代日の抽象芸術が西欧の影響下に従属していたのではなく、それなりに自立的で内在的な必然性によって展開したという

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