ですが、ここはあえて、「簡単な話ではない」とか「答を出せない」といった語りに埋没させるべきではなく、むしろロジカルでシンプルな答を用意していかなければならないのではないかと思っています。
![アクセシビリティが届いている人の無自覚さ - 金澤貴之研究室へようこそ!](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/4fd54348a84cd02dda533a967e4a1ff7e5967447/height=288;version=1;width=512/http%3A%2F%2Fkanazawalab.txt-nifty.com%2F.shared-cocolog%2Fnifty_managed%2Fimages%2Fweb%2Fogp%2Fdefault.png)
一昨日,久しぶりに聾教育関係の研究会に参加しました。 ろう・難聴教育研究会。 その懇親会で,こんな疑問を投げかけてみました。 すなわち,「聾児の日記の文章の間違いは直すべきか否か。」 ここで重要なのは,感覚的な話や先入観を廃し,言語獲得理論から見て,はたしてどうかということです。 具体的なイメージとしては,文法上の間違いを訂正して「完成」した作文を嫌々1枚仕上げることと,間違いだらけを気にせずに5枚作文を書けるのと,はたしてどちらの方が効果的なのか?といったところ。 人間には言語を生み出す本能があり,体に宿る言語獲得装置が機能することに期待するとすれば,話し言葉同様に,聾児にとっての書き言葉についても, 1)読み作業によって正しい言語モデルを目から吸収し, 2)エラーを気にせず書き作業による言語表出の総量を増やすことが早道なのではないか,とも考えられるわけです。 もちろん,話し言葉と書き言
自分と違う考えに出会ったとき,私たちは,ついつい,「でも…」と言ってしまいます。 それって,例えば,「なるほど確かにそうですね。」と前置きをしていたとしても,実はまったく意見を聞き入れていなかったりします。 共感する意見に納得するのは,当たり前。 しかし,反対する意見に納得するのは,なかなか難しい。 それができることもまた,1つのトレーニングなのかもしれません。 そのための第一歩として,「納得」までできないのなら,納得していようがしていまいが,そのまま受け入れることから始めることも必要かなと思うのです。 とはいえ,これがなかなか難しいもんですけどね。←自分 ただ,私自身にとって幸いだったのは,聾教育という,手話だ口話だと,いろんな価値観が渦巻く中に身をおいて,たくさんのインタビューをこなしてこられたことです。 それも,学生の時に。 自分の考えとまったく異なる主張と出会うこともありました。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く