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ブックマーク / kbaba.asablo.jp (5)

  • 俗文体による思考の自由の獲得: 轟亭の小人閑居日記    馬場紘二

    《言語の壁》 大坂から中津へ帰ってきた兄弟5人、言葉が違う(地域差)。 上士・下士 の言葉遣いの違い(身分差)。 話すように書いたのでは通じない。 福沢は、 書き言葉だから持ち得た普遍性を意識していた。 《士人無学》 『福澤全集緒言』に『西洋事情』がなぜ沢山売れたかについて、維新をなし とげた諸藩の有志者が「儒学の極意より之を視れば概して無学と云わざるを得 ず」、「国を開いて文明に入らんとするには何か拠る所」が必要だったからで、 「浅薄なる西洋事情も一時に歓迎せられたる所以」だとした。 「維新当初我 国の英断は当局士人の多数が漢文漢学を味うこと深からざりしが故にして、奇 語を用うれば日の文明は士人無学の賜(たまもの)なりと言うも過言に非ざ るべし。」 武士たちは一応、漢学は勉強していたが、深く入ってはいなかった (斉藤さんは、中学・高校の英語教育に似ている、と)。 それは教育の普及、 大

  • 福沢諭吉の漢文修業: 轟亭の小人閑居日記    馬場紘二

    齋藤希史さんの「文体と思考の自由―福澤諭吉の射程」の講演、昨日のが序 で、これから題に入るのだが、以下の文中、レジュメにある見出しを《》、斉 藤さんによる要約を〔〕で示すことにする。 《不飾自在の文章》 中江兆民は『一年有半』で福沢の文章について「福澤文天下之れより飾らざ る莫(な)く、之れより自在なる莫し。其文章として観るに足らざる処、正に 一種の文章也」と、旧来の〔修辞からの自由〕な〔文章ならざる文章〕と評し、 「やさしく、わかりやすい」というのとは違う評価をしている。斉藤さんは、 質かもしれない、と。 《漢学者の父》 父が諭吉の名を取った『上諭条例』は、単に四書五経程度のものではない特 殊なで、社会性の強い実用的な文章。 《漢文修業》 〔晩学 素読と会読〕福沢の実は遅い十四、五になってからの勉強がプラス に作用した。 朝の「素読」を教えてくれた人と、昼からの「会読」(中身の議

  • 漢文が最も盛んな時代: 轟亭の小人閑居日記    馬場紘二

    5日は、福澤諭吉協会の第107回の土曜セミナー、齋藤希史(まれし)さん の「文体と思考の自由―福澤諭吉の射程」という講演を、交詢社で聴いてきた。 齋藤希史さんは東京大学大学院総合文化研究科准教授、専攻は中国古典文学だ が、『漢文脈の近代―清末=明治の文学圏―』(名古屋大学出版会、サントリー 学芸賞受賞)、『漢字圏の近代』(東京大学出版会)、『漢文脈と近代日―もう一 つのことばの世界―』(NHKブックス)などの著書がある。 1963(昭和38) 年生れ、京都大学卒という。 齋藤さんは初めに、日で漢文が最も盛んな時代は、(私には意外だったが) 江戸後期から明治にかけてだった、という話から入った。 東アジアの文化的 伝統である漢文の受け取り方が、日では、時代時代で違い、時代の変化とお 互いに関係し合っていた。 漢文の担い手は、中国では科挙の関係で士大夫層 だったが、日では、平安時代は貴族

  • 福沢の「新しい文章」の工夫: 轟亭の小人閑居日記    馬場紘二

    《漢学から洋学へ》 福沢は『自伝』で「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょう」と長 崎に行き、松崎鼎甫という薩摩の医学生にオランダ語の初歩を習うが、漢書を 読むなら自分が数等上流、字を読み義を解するのは、漢蘭同じだろうと考える。 福沢にとって、漢学は大きな土台であり、ものの見方、学び方、考え方は、洋 学にも共通していた。〔才能の自負〕〔学問の普遍〕 《新しい文章》 福沢は『福澤全集緒言』で文章著訳の工夫について述べている。 「日国 中に武家多しと雖(いえど)も大抵は無学不文の輩のみにして、是れに難解の 文字は禁物なり」。 緒方洪庵は、翻訳は辞書などを使わず、自分の知っている 言葉だけにし、字を忘れた時は俗間の節用字引*で事足りる、と教えた。 師の 教えに従い、難解の文字を避け平易を主にしたが、少年の時から慣れた漢文の 習慣を改めて、易しく書くのはかえって骨が折れ、苦労して、意識的に

  • 戦犯として追放された漢字: 轟亭の小人閑居日記    馬場紘二

    閑話休題。 円満字二郎さんの「禁じられた「八紘一宇」」に戻る。 紀元二 千六百年記念行事(神武天皇が即位したとされる年(紀元前660年)を第一年 とする紀年法である皇紀2600年を祝った)が行われた昭和15(1940)年、神 武天皇ゆかりの地、宮崎に高い塔「八紘之基柱(あめつちのもとばしら)」が建 てられた。 番組で円満字さんは、今は「平和の塔」と名前を変えた塔を訪れ る。 御幣を模した塔の内部、その中心の底に当たる部分に校倉造りの小さな スペースがあり、その胎内に塔の生命、いわば尊として「八紘一宇」の文字 が祀られていた。 円満字さんは、文字を神様と言い切っていいかは別として、 文字に寄りかかって聖域が出来ており、後光のようなものであることは確かで、 その光源に文字があり、それは文字の役割としては特別なことである、と言っ た。 「八紘之基柱」は、拾銭札の図柄にも使われた。 国民を戦争

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