いつの間にか、言葉の問題に戻っていました。 でも、ネアンデルタールからは、少しそれるかもしれません。 言葉の問題を、小林秀雄の「本居宣長」をテキストにして考えている人がいるということを知って、ちょっとした感動でした。 あの本に書かれていることを認めるなら、言葉の問題は、象徴化の知能がどうのというような理屈では済ませられないはずです。 そういう安直な思考しかできない現在の学問の世界における制度性、このことを考えると、小林秀雄がなぜあのときに「本居宣長」という本を書かずにいられなかったかということの一端も、すこし見えてくるような気がします。 歴史の無意識として、われわれ現代人はちょいとやばい状態におちいっているのではないか、そんなことを教えられます。小林秀雄が本居宣長とともに嘆いたことが、もっとあからさまになってきている。 キーワードは「嘆きを表現する」ということ。そこにこそ人間の本質があり、