「なつかしさ」とは別なモードになって初めて、文化史や風俗史は成り立つものかも知れない。逆に、「なつかしさ」を駆動させておかない・おけないジャンルだと、資料が失われやすいのかも知れず。このへんパラドキシカルに思えるかも知れないが、案外見逃されているポイントかも。 「なつかしさ」が素直に同時代の気分として稼動している間は、直近の記録が残されやすいのに対して、それが一定の期間を過ぎ、「なつかしさ」を親身に覚える世代が世の中から退場し始めるようになると、それに比例して残される記録のタイプも変わり、またそれら記録に対する意識の仕方も変わってくるような。このへん、「現代史」というもの言いに関連してこれまでもあれこれ議論が繰返されてきたあたりのこととも関連するかと。「歴史」はどこから始まるのか、またあるいは、どこまでが「現在」でそこに「歴史」はどのように介在し得るのか、とか。 「歴史」のための資料、記録