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ブックマーク / note.com/jishizuka (4)

  • 松平頼則が残したもの|石塚潤一

    一九二五年、秋。フランスのピアニスト、ジル=マルシェックスは、帝国ホテルロビーにおいて、六夜に渡る連続演奏会を挙行した。日楽壇のメインストリームはドイツ音楽へ目を向けており、フランス音楽など噂ばかりで稀にしか聴けなかった頃の話である。ドビュッシー、サティ、六人組の作品を中心に、実に三十三曲もの日初演曲を含んだプログラムは、音楽専門家だけではなく、在京の趣味人の興味をも惹きつけ、後に梶井基次郎は、これらの演奏会の印象をもとに、小説「器楽的幻覚」を書くことになる。さて、これら一連の演奏会を聴いたことを機に音楽家への道を歩み始めた青年がいる。彼は、ほぼ独学の末に作曲家となり、フランス近代音楽の和声法から、総音列技法、アレアトリーに至る西欧最先端の音楽語法を、確実に自分のものとして行った。その姿は、あたかも日の洋楽受容史を体現しているかのようである。しかしながら、真に重要なことは、彼が新しい

    松平頼則が残したもの|石塚潤一
  • 部分と全体 ~モートン・フェルドマンの美学~|石塚潤一

    #2008年に執筆したものの再録です 。 少々個人的かつ挑発的な話より筆を起こすことをお許し頂きたいのだが、私は「音楽には国境がない」とか、「音楽は聴けば誰にでもわかる」といったナイーブな物言いをする人を信用出来ない。そうした物言いをするか否かで、その人の話、もちろん音楽についての話だが、の信頼性すらかなりな精度で評価できると考えている。 というのも、ジャンルを問わず様々な音楽を聴くように努め、そしてその中の幾つかについて文章を書いてきた経験から、どのような音楽ジャンルもそれぞれ固有の文脈の上に存在しており、その文脈がいかに強固に、聴き手の音楽性、楽しみ方、音楽の理解、等々を縛っているのかを肌で理解しているからだ。ゆえに、文脈に馴染みがない音楽というのはえてして理解しにくいものであるし、しばしば「分からない、ゆえに意味がない」という単純な拒絶へと結びついてしまう(だからこそ、「分からないの

    部分と全体 ~モートン・フェルドマンの美学~|石塚潤一
  • 松平頼曉声楽作品集|石塚潤一

    今まで、CD、レコードではあまり聴くことが出来なかった、松平頼暁の声楽作品を6曲集めたCDが来月リリースされます。収録作品は、収録順に 《アーロンのための悲歌》(1974) 太田真紀(Sop) 《歌う木の下で》(2012,19) 太田真紀(Sop)、溝入敬三(Cb) 《ローテーションII》(2011) 太田真紀(Sop)、白井奈緒美(Sax) 《時の声》(2013)太田真紀(Sop)、山田岳(e-Gt) 《サブスティテューション》(1972) 太田真紀(Sop)、中村和枝(Pf) 《反射係数》(1979,80) 太田真紀(Sop)、甲斐史子(Vla)、中村和枝(Pf) の6作品です。 昨年10月30日、東京オペラシティ・リサイタルホールにて開催された個展で演奏された作品が主となりますが、サクソフォンとのデュオ《ローテーションII》は、当日には演奏されなかったものです(サックスの白井が、当時

    松平頼曉声楽作品集|石塚潤一
  • 松平頼曉のための祝詞|石塚潤一

    松平頼曉氏からは、これまでたびたびお話を伺う機会があったのだが(以降敬称略)、ある晩、作曲家、八村義夫が唐突にかけてきたという電話の話が、ひときわ印象に残っている。「時計の針が時を刻む音だが、あれはいったい何拍子だろうね?」。電話口でそう訊ねる八村に、松平は「一拍子だ」と即答したとか。この二人の作風を知るものからすると、あまりに良く出来た笑い話のようである。 時計の刻みに何らかの拍子感を幻視せずにいられない八村と、時計を動かす機構は一定であるがゆえ刻みに変化があるわけはない、ならば拍子感など生まれようがなく、言うなれば「一拍子」だという松平。少々の飛躍はあるが、筆者は前者の感覚に表現主義、後者に新古典主義を接続してみる。八村といえば、表現主義の王道を往く12音技法導入以前のシェーンベルク作品を、さらに凝縮したかのような作風で知られていたわけだし、松平の、音楽にいかなる感情/物語も乗せず、あ

    松平頼曉のための祝詞|石塚潤一
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