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ブックマーク / note.com/mag_rekihaku (6)

  • 『REKIHAKU』011連動展示:顔身体をもつ先史時代の道具たち|REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく

    はじめに 『REKIHAKU』011の特集は、顔や身体をつけた道具から、様々な文化・社会の特徴を考えたいと企画しました。なぜヒトは顔に注目するのかを心理学的に解説していただいたり、弥生時代~古墳時代に顔造形がほとんど消えてしまう現象、中国・琉球から九州にかけての顔を持った船、フィクションとしての「付喪神」、中米マヤにおける顔が付いた土器の社会的価値の高さなど、それぞれ特徴的な歴史像が浮かび上がってきました。 中でも、私が研究している縄文文化は、長い歴史の中で、特定の時間・地域だけに顔・身体をもった土器(以下、顔身体土器)が集中的に表れるという特徴をもっています。誌ではあまり詳しくは取り上げられませんでしたが、歴博では、レプリカを含めて多くの関連資料を所蔵しているので、この機にそれらを紹介したいと思います。 中村耕作(国立歴史民俗博物館・准教授) 縄文時代中期中葉-勝坂式の顔・身体土器 縄

    『REKIHAKU』011連動展示:顔身体をもつ先史時代の道具たち|REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく
  • 女房が日記を記したのはいつからか? かな日記と『土佐日記』(小倉慈司)|REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく

    ※ このnoteは「REKIHAKU 特集:日記が開く歴史のトビラ」(2021年6月刊行)に掲載されたコラムの転載です。 かなを用いて日記を書くことは貫之の発明ではなかった「かな日記」と言えば、古代では紀貫之『土佐日記』が有名である。「をとこ(男)もすなる日記といふものを、をむな(女)もしてみむ、とて、するなり」で始まる創作文学であり、土佐から帰任する国司に随従する女性の立場で記されているが、貫之が土佐守の任を終えて都に戻るのは九三四(承平四)年末から翌年にかけてのことで、それからまもなく執筆されたらしい。ただ、かなを用いて日記を書くことは貫之の発明ではなく、それ以前にかなで日記を記した女性が存在していた。藤原穏子(やすこ)である。 穏子は関白藤原基経の娘として八八五(仁和元)年に生まれた。人康(さねやす)親王の娘を母とする。数え年七歳のときに父基経が亡くなった後、兄の時平は穏子を皇太子敦

    女房が日記を記したのはいつからか? かな日記と『土佐日記』(小倉慈司)|REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく
  • 中世の「日本」はどんなカタチをしていたのか?(荒木和憲)|REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく

    ※ このnoteは「REKIHAKU 特集:いまこそ東アジア交流史」(2021年2月刊行)に掲載された特集記事の転載です。 中世「日」の境界いまから500年前の「日」はどんなカタチをしていたのだろうか。北海道は「夷島(えぞがしま)」と呼ばれる異域だった。沖縄には琉球国という国家が存在し、奄美諸島(鹿児島県)をも領有していた。中世「日」の境界は、現代日の国境とは全く違うし、中世という時代(11~16世紀)のなかでも変動がある。ユーラシア大陸ほどダイナミックではないが、日列島でも境界は常に変動していたのである。現代日のカタチ(国土)は幾多の変動を経てきた歴史的産物なのであり、現代の「国家」や「国民」という考え方を近代以前にさかのぼらせるわけにはいかない。その当時の人々が何を考え、どのように行動したのかを、現代の「常識」に縛られることなく明らかにすることが歴史学の役割である。 人間社

    中世の「日本」はどんなカタチをしていたのか?(荒木和憲)|REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく
  • REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく|note

    『REKIHAKU』011連動展示:顔身体をもつ先史時代の道具たち はじめに 『REKIHAKU』011の特集は、顔や身体をつけた道具から、様々な文化・社会の特徴を考えたいと企画しました。なぜヒトは顔に注目するのかを心理学的に解説していただいたり、弥生時代~古墳時代に顔造形がほとんど消えてしまう現象、中国・琉球から九州にかけての顔を持った船、フィクションとしての「付喪神」、中米マヤにおける顔が付いた土器の社会的価値の高さなど、それぞれ特徴的な歴史像が浮かび上がってきました。 中でも、私が研究している縄文文化は、長い歴史の中で、特定の

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  • 名もなき人々の小さな日朝関係史―瀬戸内漁民の朝鮮海出漁─(松田睦彦)|REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく

    ※ このnoteは「REKIHAKU 特集:いまこそ東アジア交流史」(2021年2月刊行)に掲載された特集記事の転載です。 残された一枚の画幅「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」 東西に長い瀬戸内海の中央、燧灘(ひうちなだ)の真ん中に浮かぶ島、魚島(うおしま)。島の面積は一・三七平方キロメートル、周囲は六・五キロメートル。愛媛県越智郡上島町に属する小さな島である。 魚島の港と集落(2018年撮影) 漁業の盛んなこの島には、漁船団の出航の様子を描いた、一枚の画幅が残されている。一九〇七(明治四〇)年に描かれた「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」である。地形や集落の配置から見て、魚島を北側から俯瞰した絵であり、画題の通り、韓国(大韓帝国)、すなわち朝鮮への出漁の様子を描いたものである。 「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」(複製、原品1907年、歴博蔵) 少し細かく絵を見ていこう。画面の上半分

    名もなき人々の小さな日朝関係史―瀬戸内漁民の朝鮮海出漁─(松田睦彦)|REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく
  • シーボルト父子と一五〇年前の日本(日高 薫、福岡万里子)|REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく

    ※ このnoteは「REKIHAKU 特集:されど歴史」(2020年10月刊行)に掲載された特集記事の転載です。 シーボルト父子の知られざる姿を追う国際プロジェクト 江戸時代の日に来て、長崎・出島のオランダ商館付きの医師として、日人に西洋医学を教えたことで有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。 幕府禁制の日地図を持ち出そうとして国外追放され、お滝さんや娘のイネを残してヨーロッパに帰らなければならなかった彼が、年老いてから開国後の日を再び訪れていたことはさほど有名ではない。彼が最初の来日から帰欧後、ドイツ人の貴族女性と結婚し、もうけた三男二女のうち長男と次男が、父の足跡を追いかけて来日し、明治政府のお雇い外国人や駐日オーストリア公使館の通訳・外交官となって、日欧の架け橋として活躍したことは、もっと知られていないかもしれない。 国立歴史民俗博物館(歴博)は、このシーボルト父子

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