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ブックマーク / takashukumuhak.hatenablog.com (4)

  • 川端純四郎『バッハ万華鏡』 - Tr,平居の月曜プリント

    今年の5月23日、仙台在住の宗教学者・川端純四郎氏が亡くなった。私は新聞でそれを知ったのだが、この1週間ほどで、その遺稿とも言うべき『バッハ万華鏡』(7月25日刊、日キリスト教団出版局)というを読んだので、今更ながら少し触れておこうと思う。 私がこの方の名前を知ったのは、大学に入って間もない頃だった。中学校時代の恩師A先生から、「東北学院大学にいる川端純四郎という先生は、人格者である上、とても頭の切れるすごい人だ。学問をするなら、あのような人に就くのがよい」というようなことを言われた。私は宗教学を学ぼうと思っていたわけでもないし、入った大学も学院大ではなかったので、そう言われても困るなぁ、と少し思ったが、A先生がそのように言うからにはよほどすごい人なのだろうと、名前だけは記憶に残った。 当時の私は恐いもの知らずだったので、研究室を直接訪ねて議論をふっかけるなどというのは朝飯前だったはず

    川端純四郎『バッハ万華鏡』 - Tr,平居の月曜プリント
  • 「悲劇」と「英雄」を求める心 - Tr,平居の月曜プリント

    当は、今日、フィンランドの教員養成システムについて書いて、フィンランドシリーズを終わりにしようと思っていた。ところが、その前に読んでおきたいと思っていたが届かないという事情があったりするので延期し、10月28日付「第2次月曜プリント」の裏面に引用した某書籍(都合により書名は最後に明らかにしよう)の記事に触れておこうと思う(この日のプリント表=文には、公開するほどの一般的内容がないので、パス)。 が持っていたこのを手に取って、パラパラとページをめくり、私はびっくり仰天。現在我がクラスに在籍するKが、実名で登場していたのである。人も何も言わないし、水産高校の教員もおそらく誰もこの記事には気付いていないのであろう。Kが登場する文章のタイトルは、「お年寄り救った少年は「1・17」生まれ」というものであった。 教室でプリントを配ると、生徒達から「おっ、すげーっ」みたいな反応がある一方で、

    「悲劇」と「英雄」を求める心 - Tr,平居の月曜プリント
  • 中原中也についての貴重な証言・・・村上護氏の訃報に接して - Tr,平居の月曜プリント

    6月30日の新聞各紙に、文芸評論家・村上護氏の訃報が載った。71歳。たいていは氏の代表作として、デビュー作でもある『放浪の俳人山頭火』(1972年)を挙げるわけだが、私が見た範囲で、『読売新聞』だけが、それと共に、氏が『私の上に降る雪は』の編集者であることを書いていた。私の記憶に氏が甦ってきたのは、この記事を見たからである。 『私の上に降る雪は』(1973年)は、詩人・中原中也の母・中原フクさんが息子の思い出を語ったもので、村上氏はそれを聞き書きの形でまとめた。私が中原や小林秀雄をせっせと読んでいた時期、このは入手が非常に困難となっていた。今のようにインターネットで探すことも出来なかった時代、折に触れて東京の古書店を覗いては、田村書店でようやく手に入れたのを覚えている(今、文庫で容易に手に入るのは少し悔しい)。中原中也の弟である医師・中原呉郎氏が種田山頭火と親交のあった心酔者だという縁で

    中原中也についての貴重な証言・・・村上護氏の訃報に接して - Tr,平居の月曜プリント
  • バッハ『音楽の捧げ物』・・・パイヤールの訃報に接して - Tr,平居の月曜プリント

    5月6日だったかの新聞に、ジャン・フランソワ・パイヤールの訃報が載った。亡くなったのは4月15日だという。パイヤール室内管弦楽団を組織し、バロック音楽の普及に大きな功績を残した、というのが公式の紹介として無難だろう。しかし、その活躍が華やかだったのは、おそらく1980年頃までで、その後は、レオンハルトやブリュッヘンによる古楽器派が主流となり、いわば時代遅れなバロック演奏として忘れ去られていったように思う。 訃報に接し、ひどく久しぶりで、我が家にあるパイヤールのCDを聴いてみようという気になった。特に、J・S・バッハ『音楽の捧げ物』は、かつて私の愛聴盤のひとつであった。そして、これを聴いていたところ、他の人による『音楽の捧げ物』も聴き直してみたくなって、この半月ほど『音楽の捧げ物』に浸っていた。 大バッハ最晩年の作品のひとつ『音楽の捧げ物』は、楽譜が非常に謎めいた書き方をされている上、使用す

    バッハ『音楽の捧げ物』・・・パイヤールの訃報に接して - Tr,平居の月曜プリント
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