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ブックマーク / uemurag.hatenablog.jp (4)

  • 戦前にはほぼ無視されたフッサールの「『改造』論文」 - 研究日誌

    1923年から1924年にかけて、フッサールは日の総合誌『改造』に3篇の論考を寄稿した。当時いろいろあって未刊行に終わった残り2篇とあわせて「『改造』論文」とも呼ばれるこの連続論文は、1989年に『フッサール全集』(Husserliana)第27巻として出版されるまで、世界中のほとんどの人にとって読むことが難しい文献だった。そもそも『改造』にアクセスすることが日以外の国では簡単ではないだろう。それに加えて、第1論文「革新:その問題と方法」(1923年)こそ日独両言語で誌面に載ったものの、第2・第3論文は日語訳だけの掲載だったのである。つまり、当時の日の人々はフッサールの「『改造』論文」をいちはやく読むことができる例外的な立場にいたということでもある。 だが、どうやらこの論文は戦前の日でほとんど何の反響も引き起こすことなくスルーされたようである。というのも、「『改造』論文」に言及し

    戦前にはほぼ無視されたフッサールの「『改造』論文」 - 研究日誌
  • フッサールにたどりつくために——富山豊『フッサール 志向性の哲学』(青土社、2023年) - 研究日誌

    『フッサール 志向性の哲学』(青土社、2023年)を、著者の富山豊さんからお送りいただいた。待望の単著といっていいだろう。志向性に関するフッサールの見解について私が論じる次の機会——万事が順調に進めば今年の5月後半には最初の機会がやってくる——に書を詳しく検討しなければならないことははっきりしているので、まずはざっと一周読んだ。読む前から分かっていたことではあったが、期待させるだけ期待させておいて……ということにはまったくならなかった。待ち望んだ甲斐があった。以下に簡単な感想を記しておく。同書のページ数への参照はアラビア数字だけで行う。 書はフッサールに関する入門書だが、私の知るかぎり、他のどの類書とも異なっている。ある哲学者についての入門書というものは、その哲学者の思想の全体像を示すのを目的にするのが通例である。それに対して書は、フッサール現象学の全体像を包括的に示すわけではない。

    フッサールにたどりつくために——富山豊『フッサール 志向性の哲学』(青土社、2023年) - 研究日誌
  • 現代哲学の研究に哲学史は必要なのか(その2):何が誰にとって不要だとされているのか - 研究日誌

    前回の記事の続き。大雑把には「現代哲学の研究に哲学史は必要ない」という主張を擁護した論文 Hanno Sauer, "The End of History", Inqury. https://doi.org/10.1080/0020174X.2022.2124542 について、いくつかの補足をしておく。ちなみに哲学史と哲学の関係について私は自分なりの考えをもっており、Sauerの論文にも賛成できるところとできないところがある。しかし前回と同様に今回のエントリーでも、原則として私見を交えずにSauerの主張をはっきりさせることしかしていない。また、原則を破って私見を述べる際には、それとわかる書き方をしたつもりだ。 前回のエントリーと同じく、以下ではこの論文を2022年9月現在の'Latest articles'版のページ番号だけで参照する*1。これまた前回と同じく、以下に出てくる鉤括弧は、そ

    現代哲学の研究に哲学史は必要なのか(その2):何が誰にとって不要だとされているのか - 研究日誌
  • 現代哲学の研究に哲学史は必要なのか - 研究日誌

    大雑把に言えば、タイトルの問いに「必要ない」と答える論文が出た。 Hanno Sauer, "The End of History", Inqury. https://doi.org/10.1080/0020174X.2022.2124542 読んでみたら面白かったので、自分用のメモも兼ねて概略をまとめておいた。感想なども書きたいのだけど概要だけでだいぶ長くなったのでその辺はまたの機会にしたい。とはいえいくつかのことは注に書いておいた。 要注意事項 以下では同論文を2022年9月現在の'Latest articles'版のページ番号だけで参照する*1。 以下に出てくる鉤括弧は、そのあとにページ番号が付されている場合には同論文からの引用である(翻訳は植村による)。それ以外の鉤括弧は読みやすさのために植村がつけたものだ。 この要約は、箇所によっては原文をかなりパラフレーズするかたちで作られてい

    現代哲学の研究に哲学史は必要なのか - 研究日誌
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