「1975年と1976年の間、ミシェル・フーコーにいったい何が起きたのか?」 前回唐突に投げかけた問いの答えが、この記事のタイトルであることは明らかであろう。しかし結論を急ぐ前に、前回の年表を参照しながら、1970年代におけるフーコーの「権力」の系譜を追って、前後関係を明らかにしたい。 アッティカ・ブルースに耳を澄ませて 1971年のコレージュ・ド・フランス講義『知への意志(言説の秩序)』において、フーコーの権力分析の対象はまだ「主権権力」であった。しかしそれ以降、フーコーは「法」や「階級」など、これまで「権力」があると思われていた場所から、意図的に遠ざかっていく。ドゥルーズが『監獄の誕生』の書評で「マルクス以後はじめて新しい何かが出現したようだ」と評したように、これはフーコー自身がマルクスを乗り越える作業だったのかも知れない。 1970年代前半のフーコーは、自ら監獄情報グループ(GIP)