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表現に関するggg123のブックマーク (5)

  • ネットだからプロとアマの垣根がなくなるというアングルは、終わってもいいんじゃないか - やまもといちろうBLOG(ブログ)

    ちと猛烈に忙しく、忙しいためか手慰みな感じになっちゃうけどご容赦。 大量のプロの表現者がべていける時代は、終わってもいいんじゃないか【湯川】 http://techwave.jp/archives/51457840.html ここでいう、「大量のプロ」というものを、読み手がどう想像するかによって、実は結論が異なる。私は、大量のプロは新聞社であり出版社であり広告代理店であるというような大企業で働く記者や編集者や広告マンのことかなと思って読んだ。文中には、「作家やミュージシャン、カメラマン、ジャーナリスト」とあるが、彼らかてこれらのプロフェッションの対価はそれなりの割合が新聞社や出版社や広告代理店で得ているだろうからだ。 彼らの存在が脅かされる対象として、アマター、すなわち無料の表現者によって市場を蚕され、対価を貰わないシステムがネットの中で完成し、完結することによって収入が下がってしまい

    ネットだからプロとアマの垣根がなくなるというアングルは、終わってもいいんじゃないか - やまもといちろうBLOG(ブログ)
    ggg123
    ggg123 2010/06/05
    そう考えるので、お前らustream観ろとか微妙すぎる結論にして書き飛ばして記事数とPVを稼ぐような雑な仕事で黒字化を目論もうとするのはどうなんだと思った。あと、既存のマスコミに対するルサンチマンもやめろとも感じ
  • 坂のある非風景 手をつなぐこと

    弱々しい街灯が、切れかけて瞬いていた。森の向こうに、練習場の大きな照明機器の裏面が見えた。お兄ちゃん、何してんの。従妹だった。飲み物でも買いにいくか、と私は従妹を誘い、練習場へと向かって歩き出す。従妹が手をつないできた。道は暗かったが、星は見えなかった。薄く広がる雲が、空を覆い尽くしていた。 物語が差し出されているのではない。〈物語ること〉として何かが差し出されている。いつだって書かれたことによって初めて、それが「書かなくてもよかった」ことだとわかるし、「書かなければならなかった」ことだともわかる。でも必要なものと不要なものにほんとうは境界なんてない。いったいどこから従妹はやってきたのか、そしてどこへ去ったのか、ただ彼女は私に一瞬触れ、その彼女の無防備な接触が私の無防備な瞬間を作り出している。夜空を見上げるためには従妹と手をつなぎ歩き始める必要があった。でも夜空を見上げる必要なんてなかった

    ggg123
    ggg123 2010/04/01
    読んでいてもたどり着けない感じがする文章はある。と思う。大抵そういう文章は読んだあとも其の世界に私をひとり残す。様な気がする。
  • 残虐なコンテンツ?オレのはらわたのことか! : 404 Blog Not Found

    2008年03月20日21:45 カテゴリValue 2.0Love 残虐なコンテンツ?オレのはらわたのことか! 見せるべきか、見せぬべきか、それが問題--ではない。 残虐なコンテンツを子どもにみせるべきか - 雑種路線でいこう 僕はグロいコンテンツに正直動揺したし、ああいったものを自分の息子たちが今の段階でみれてしまっては問題があると思うけれども、業界で一眼となって冷静に、フィルタリングよりも有効な手法などについて考えるべき時期ではないか。 残虐との出会いはいつなのだろう。それがメディアである人が、正直羨ましい。妬ましくはない。というより私に妬みはわからない。それはさておき、私が最初に残虐に出会ったのは家庭だった。私にとって、残虐とはTVで見たり人から聞いたりするものではなく、自らの頬で触れて味わうものであった。まずは拳の痛み。そしてそれで切れた鼻と口から出る血の味。それは現代日では珍

    残虐なコンテンツ?オレのはらわたのことか! : 404 Blog Not Found
    ggg123
    ggg123 2008/03/21
    >残虐さが自分の中にもあると知ること。それを示唆するためにはコンテンツの規制は慎重であるべき。そういう教育環境は自前で整えるしかないのだから、フィルタリングはあったほうがと思う。
  • 書けないこと、書かないこと。 | べびろぐ。

    表現するという不幸 - 煩悩是道場 ウエブという空間は、表現者を見る事なく表現そのものしか見る事が出来ないが故、コンフリクトという名の不幸が発生する。 ある意味で僕はこのことを書くことで、誰かを傷つけてはいるのだろう。 誰かを傷つけておきながら、僕に何かを書く権利はあるのか。このように考えると、僕が文章を書くという行為は、直接的には自己を満足させるためであっても、間接的には誰かを傷つけるために書くということになってしまう。 このような反吐のでるような行為を僕は毎日のように続けている。 それを恥ずかしいとも思わずに、痛みを抱えている人のことなど考えずに。 ただこれには巧妙な論点のすり替えがある。 自分が厭な気持ちになる文章を見たくないという一人の主張を通すために、誰かが傷つくということを前提に文章を書く行為自体を否定しているところである。 僕があえてこれに反論するとすれば、「あなたが生きてい

    書けないこと、書かないこと。 | べびろぐ。
    ggg123
    ggg123 2007/11/10
    うるるんさんのコメントがアートの人っぽい。
  • 自己表現とブログ。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    広告屋さんという職業は、ひとのために書く職業です。企業になりかわって書くわけです。普通に真っ当に考えれば、そこに書き手の自我が介在する余地はありません。広告表現を極限まで持っていけば、それは企業と書き手はほぼ同一化することになります。 少し前、東京コピーライターズクラブの年鑑のテーマに「コピーは私だ。」というものがありました。コピーライターが時代の花形職業だった頃のことです。その頃には、今のブログと同じように、コピーは、コピーライターという一個人の思いがたくさんあふれていました。仲畑さん、糸井さんといったスターコピーライターの思いが、商品を超えてそこに確かにありました。 私はそうしたフリー全盛時代を少し過ぎ、広告は広告代理店が作るものだと言われ始めた頃に、この業界に入りました。そういう意味では、私の世代は迷える世代であると思います。そして、時が経ち、広告システムというブラックボックスが可視

    自己表現とブログ。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
    ggg123
    ggg123 2007/11/01
    あえてネット人格タグ。似てるような気がするんで。演出してしまうってことかな。と。
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