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2008年3月27日のブックマーク (8件)

  • 人は「対象a」の事について、どう説明すればよいのだろうか? - kuriggen’s diary

    ここで忘れてはならないのは、対象aは欲望の原因であり、欲望の対象とは違うということである。欲望の対象は、たんに欲望される対象のことであるが、欲望の原因は、対象の中にあるなんらかの特徴であり、その特徴ゆえにわれわれはその対象を欲望する。それはわれわれがふつう気づかない細部とか癖で、われわれは時としてそれを障害として捉え、この障害があるにもかかわらずその対象を欲望しているのだと誤解することがある。 ジジェク 『ラカンはこう読め!』 怪物の映画もそうなのだが、映画の構造において、そこで示すべき謎の対象が、あるいは凶暴さを発揮するべき荒ぶれた対象、不気味な対象というのが、一つの映画のテーマになっているような場合の話を考えてみよう。これはよくある映画の構造であり、作り方である。映画的時間の中で出遭われるべき対象について、それを如何に示すべきか、どういうプロセスを措いて示すのか、どのような時間、順序に

    人は「対象a」の事について、どう説明すればよいのだろうか? - kuriggen’s diary
  • ナルシズムとプライド、そして理想自我と自我理想の違い - kuriggen’s diary

    ラカンの用語で、理想自我と自我理想の違い、という言い方が出てくる。ある意味有名な説ではあるのだが、どうもこれをどう理解すればよいのかという段になると、実は相当難しい話なのではないかと思う。それはラカンの説明の仕方自体が、まず難しいということでもあるのだが。 僕が考えていたのは、これは、ナルシズムとプライドの関係を橋渡しする概念と考えたときに、よく理解できるのではないかと思う。簡単に言おうとすれば、「理想自我」とは想像的同一化のことで、「自我理想」とは象徴的同一化という、自我の捉え方における段階の違いを示すといえる。ナルシズムは、個体的成長にとって、常に自然発生しているものと見なされうる。 原始的なレベルでは、個体の自己認識にとって、神経の統覚的安定がイメージの自己充足的な安定感をもたらすものとして、世界と自己の関係の把握、その鏡像的反映、快感原則を媒介にした統覚の自己安定するレベルとして、

    ナルシズムとプライド、そして理想自我と自我理想の違い - kuriggen’s diary
    ggg123
    ggg123 2008/03/27
    [ナルシシズム][プライド][斉藤環]
  • 想像界の機能 - kuriggen’s diary

    例えば、ジジェクは、自我理想と理想自我の違いについて、このように定義している。 フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる述語を用いている。理想自我(Ideal-Ich)、自我理想(Ich-Ideal)、超自我(Uber-Ich)である。フロイトはこの三つを同一視しがちで、しばしば「自我理想あるいは理想自我(Ichideal oder Idealich)」といった表現を用いているし、薄いである『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。「理想自我」は主体の理想化されたイメージを意味する。(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思う自分のイメージ)。「自我理想」は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文

    想像界の機能 - kuriggen’s diary
  • ラカン

    ラカン Jacques Lacan ( 1901-1981) 症例「エメ」(自罰パラノイア) 「ラカンにその理論的出発点を与えたのは、劇場で女優Zにナイフで切りかかり、防ごうとした女優の手に重傷を負わせた、一人のパラノイア女性である。… エメは文学者になるべく、多くの書き物を書きためていた。三十歳を過ぎた頃、彼女は一時期、被害妄想にかかって、病院に入院していたことがある。そこを退院してから、彼女は自分の原稿をある出版社に送り、出版を断わられると、その出版社を訴えるべく訴状を認(したた)め、出版社の事務員につかみかかって警察の世話になる。この時は説諭のみで済んでいる。しかし彼女は女優Zと文学者P.B.とが結託して彼女のことを小説に書いているとか、Zが彼女の子供を殺そうとしているとかいった内容の妄想を発展させていた。この妄想を基にして、彼女はZに切りかかったのだった。 彼女の妄想の芽生えは、彼

  • ジャック・ラカン - Wikipedia

    ジャック=マリー=エミール・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901年4月13日 - 1981年9月9日)は、フランスの哲学者、精神科医、精神分析家。 初期には、フランスの構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持った精神分析家として知られていた。 中期では、フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派(フランス語版)のリーダー役を荷った。 後期では、フロイトの大義派(仏:École de la Cause freudienne)を立ち上げた。 新フロイト派や自我心理学に反対した。アンナ・フロイトの理論については、フロイトの業績を正しく継承していないとして批判し「アナフロイディズム」と呼び、「フロイトに還れ」(仏:Le retour à Freud)と主張した。 生涯[編集] 1901年、カトリックのブルジョワ階級の家に生まれる。初め独学で哲学を学

    ジャック・ラカン - Wikipedia
  • 自我が邪魔をして心を開けないセックス

  • そういえばちょっとしたブログ作法 - finalventの日記

    ここの雑日記は特に気にしてないけど、極東ブログのほうは、世相の事件をあとで振り返ったとき、その時はもう空気が抜けていることもあるから、そのころの視点で基礎になるファクツをニュースからクリップしたり基的な空気の構造みたいのを書くようにしている。そうしておくと、続報的な話題も書きやすいし。 とま、これってやっていて思ったのだけど、ブログ特有(世相を扱うブログ)のスタイルかな、と。売文なんかだと売れの魅力が必要だし、論文だと論理とかが求められる。 よく過去ログは読まれないというけど、今の空気では読まれない(発掘的に読まれることはあるにせよ)ものなので、むしろ、過ログとして過去が見えるように今書いて置くというのはあるかも。 そういえば昨日墓参りに行って花を見て温泉にぶらっと行って、どこまで生きているかな俺と思い、その前にブログとか終わりになるだろうなとか思い、まあ、それほど深刻に思ったわけではな

    そういえばちょっとしたブログ作法 - finalventの日記
  • 世の中がギスギスしているのは、クルマのデザインのせいかもしれない。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    世の中がなんだかギスギスしていると思いませんか。思わないですか、そうですか。となると終わってしまいますので、しばし世の中がギスギスしていると思ってください。で、どうしてギスギスしているのか、と考えてみました。 不況のせいか。きっと、それもあります。でも、それを私が分析してみたところで、つまらないエントリが出来上がるだけなので、他の理由を探してみました。街を見回すと、クルマ、クルマ、クルマ。 モータリゼーションの進化が世の中をギスギスさせている。それもあるかもですが、なんか面白くない。違うなあ、これは没ネタかな、なんてブロガーっぽいことを考えながらクルマを見てみると、気付くことがひとつありました。クルマの目(ヘッドランプ)がみんなつり上がっているんですね。よく見ると、どのクルマもそう。これかっ、って思いました。その後すぐに、何がこれかやねん、とも思いましたけど。 では、ひとつひとつ見てみまし

    世の中がギスギスしているのは、クルマのデザインのせいかもしれない。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
    ggg123
    ggg123 2008/03/27
    ^^楽しくなった。トミカワールドも、ぎすぎすしそう?