Cet après-midi, comme les prévisions météos prédites, la pluie a commencé soudainement. C'était une pluie d'été, qui m'a rappelé l'époque où je vivais dans une île du sud. Ce jour, je vivais avec les petits enfants. J'étais assez jeune. Le temps passe vite comme cette pluie. Je n'ai jamais appris assez mes enfants. En particulier, je n'avais jamais enseigné l'anglais aux enfants suffisamment. Ils
Quelle est la langue? Il existe différentes définitions, et il y a une variété d'idées. Relation entre le langage et la pensée n'est pas non plus facile. Même si, en général, on pense dans la langue. on peut facilement apprendre une langue, qui est la mère langue. Cependant, si on pourrait utiliser une langue différente, on penserait dans la une autre langue. À cette époque, la langue et la pensée
Je ne peux pas l'exprimer ainsi, mais quelque chose en moi a changé. Il est également similaire à la perte de mémoire. Je me demande ce que j'ai perdu une grande quantité de mémoire réellement? Je ne suis pas sûr. Il n'y a aucun problème dans ma vie. Je sentais mon esprit comme une chambre libre, où il n'y a personne. C'est un sentiment très étrange. Est-ce une maladie de l'esprit? Quand j'étais j
Un autre ami était déjà mort il y a quatre ans. Bien que je l'aie appelé un ami, je ne l'avais jamais rencontré. Mais nous avons plusieurs conversations copieuses pendant quelques années. Un jour, je savais que la conversation a été interrompue. Je pouvais imaginer qu'il allait mourir parce qu'il a une maladie grave. Cependant, je n'ai pas poursuivi son état. J'ai essayé de penser qu'il a trouvé u
猛暑復活だが、これでもまだ先日の猛暑には及ばないので、今週末が怖い。だいぶ身体に影響が出て来た(まあ、つらいですね)。 ツイッターでちょっと呟いたが。 自分からこの人は不幸になってるなと思える人を見ると、なんとなくいたたまれないような気がしたものだが、その選択もその人の自由意志の結果なのだから、尊重して見守ろうと思うようになった。 なんか可哀想だなと思えたり、その愚痴や非難を私などに向けてきても詮無いと思うのだが、私からはなにかとやかく言える権利のようなものが私にはそもそもないように思えてきた。 大病というわけでもなければ、尋常ならざる不幸というのでもないなら、ほんのちょっとの心の持ち方で、人生は変わるものだが、それは本人が自覚するしかなく、私が関われる問題でもない。 もちろん、私自身がそうした側にいたかもしれないし、今なおいるのかもしれないが。 そうして、なんというか、一生、ちょっとした
私事でどたばたとし、夕方は、筋トレ。 くたっとして今日はおしまい。 あ、つけたし。 そういえば、Acimでは執拗に「神は罰しない」というメッセージが語られる。これは、西欧的キリスト教(正教も同じだが)のように、神が究極の正義として世界に向き合うということから必然的に出て来てしまうのかもしれないが、日本人には、少なくとも私には、こうした処罰する神というのは、義の理念では理解できても、恐怖としてはない。なので、Acimのこういうところは日本人にはピント外れだなと思っていた。が、今日、ワークアウト中に、おや、そうでもないかもしれない。と思った。処罰する神ではなくても、自分が過剰に自省して承認を得たいような神観というのは自分のなかにあるな、と。日本人は、とくにイデオロギー的なセクトで顕著なのだが、法=正義の処罰ではなく、自省による自罰として粛清を行うところがある。自分はこの手のセクト思考からは免れ
This holy instant would I give to You.Be You in charge. For I would follow You,Certain that Your direction gives me peace. このレッスンを始めたのは2012年3月11日だった。その日の日記にはとくに書かなかったが、言うまでもなく、震災が関係していた。あの震災で、多くの偶然的な死や不幸を見た。それにどう向き合っていくのだろうかと、自分は思った。もちろん、そういう問いかけも間違っているかもしれない。 少しずれたところでは、やすやすと一年が過ぎたことへの恐れがあった。あともう一年がやすやすと過ぎるとしたら、自分の人生とはなんだろうか。どのように考えたとしても惰性であり、そしてつまるところ、自分が生き延びているのは幸運という偶然に過ぎないのであれば、それはどういうことなのか。
This holy instant would I give to You.Be You in charge. For I would follow You,Certain that Your direction gives me peace. レッスンは「赦し」が基本になっているとはいえるが、振り返ってみると、信頼というのか神へを信頼せよという呼びかけが多かった。同じことの繰り返しで辟易とするのだが、これは同時にいかに赦しというのがきついものかということでもある。 「赦し」というのはそもそも不可能なのではないか。Acimというのはヘレンのオブセッションなのではないか。そういう疑念がなんども湧くし、それを一概に否定もしない。 が、振り返ってみると、「赦し」というのは自我の業ではない。赦すと理解してあとは神に委ねることであり、神を信頼することの一つの帰結である。では、どのように神が信頼できる
This holy instant would I give to You.Be You in charge. For I would follow You,Certain that Your direction gives me peace. レッスン362から364までは、黙想というか個別のレッスンは与えられていない。一年間、私の場合は一年三か月ほどかかったことになるが、レッスンを総括する意味合いもあるのだろう。 ことさらにそれを意識しているわけでもないが、この間、レッスンを少し振り返ってみたいと思った。 きっかけは、「奇跡講座入門」の再読である。 奇跡講座入門―講話とQ&A 久しぶりに読み返してみると、以前よりよくわかる。その深みにおいてわかる実感があった。また、率直にわからないところ、まだ理解できていない部分も見えるように思えた。 レッスンをほぼ終えて、率直に言って、自分はこのレッ
総花的なんだけど、重要なことがきっちり書かれていた。 ジムに通う前に読む本―スポーツ科学からみたトレーニング (ブルーバックス) メモ。 筋トレが先で、その後、有酸素運動の順で。 これなら10回は反復できるという負荷。休息。10回はできないという負荷を割り出す。40kgバーベル8回なら、IRM(repetition maximum:最大筋力)は40÷0.8で50kg。 IRM70%以上筋力つくり、60%から70%が持久力アップ。 超回復は初心者だと2、3週間かかることもあり。 超回復は最終的には3-4日。 筋肉が増えるのは2か月移行。2か月間は抑制がかかるため。 初心者なら効果がでるのは3か月後。 初心者を終えたらトレーニングにはバリエーションを。また、分割してトレーニングを。ただし、初心者は基本を。 大きな筋肉から小さな筋肉へ。
生まれつき負け組のやつが勝ち組をマネするのは愚かさが加算された分だけ悲惨。 疑念にかられたときは最悪の可能性を避けるように手を打つ。 人生が短いと思うのは50歳過ぎてから。 病気になったら人生のリングは変わる。 クレジットカードは上手に使えばお財布ノート代わり。 議論に勝とうするやつは勝ち続けるまでデッドヒートする愚か者。 泣ける話で泣いているなら、人生の本泣きはこれから。 神に怒ってもよいが、その前にユダヤ教に改宗。 会社に財形があったら入っておけ。 チョコレートはヨーロッパものに限る。 自分で過去を忘れても過去はあなたを忘れない。 子どもを泣かせる親はすぐれた反面親。 他人の境遇と比べてもカネがなければ無駄。 秘密の関係はばれたときがエクスタシー。 すべてのことは一瞬で変わる。それがあなたのご臨終。 深呼吸しすぎると過呼吸パニック。 無用なものを取り除こうとするならまず自分の存在から。
cakesに連載している書評の、五木寛之『風に吹かれて』の回(参照・後編)で、テーマに近いながらも、あえて扱わなかった話があり、書かなくてもよいのだけど、なんとなく気になるので書いておきたい。 扱わなかったのには理由があった。一つは、版によっては関連の章が掲載されていないことだ。もう一つはメッセージの受け取りが難しいことだ。 風に吹かれて (角川文庫) 五木寛之自選文庫 エッセイシリーズ cakesの連載書評には、「新しい古典」と通しタイトルがあるように、これからの時代で新しい古典として読まれそうな書籍を扱っているが、古典であることの条件の一つは、読み継がれることだ。そして「読み継がれる」というのは多くの場合、いくつか異なる版の存在を意味する。 そこでまず、初版・初出と現在流布している版の比較が重要になる。『風に吹かれて』についても、いくつかの版を検討したところ、ごく基本的なレベルで、掲載
忘れたわけではないが、マシンに向かう時間がなんとなく取れなかった。iPadで書いてもよいのだけど、まだ、日記などをモバイルで扱うには慣れていない。 温かい日だった。
金融政策のあり方が衆院選の焦点に浮上しています。それはメディアの「誤報」が発端でした。政権を選ぶ選挙で、あってはならない事態です。 金融政策に大きな注目が集まったのは、自民党の安倍晋三総裁が先月十七日、熊本市内の講演で語った次の発言がきっかけでした。「建設国債をできれば日銀に全部買ってもらうという買いオペをしてもらうことによって、新しいマネーが強制的に市場に出ていく」 この発言について、多くのメディアは「買いオペ」の部分を省いて「安倍総裁が建設国債の全額日銀引き受けを検討する考えを示した」といった調子で報じました。 ◆買いオペは普通の手段 一見、どこがどう違うのかと思われるかもしれません。ところが、実は大違いなのです。 買いオペとは、政府が発行した国債を日銀が金融市場で買う操作をいいます。日銀にとっては、市中に流通するお金の量を調節する重要な手段になっていて、毎月のように実施しています。
I have a function God would have me fill. Forgiveness gently looks upon all things unknown in Heaven, sees them disappear, and leaves the world a clean and unmarked slate on which the Word of God can now replace the senseless symbols written there before. Forgiveness is the means by which the fear of death is overcome, because it holds no fierce attraction now and guilt is gone. Forgiveness lets t
『自分の小さな「箱」から脱出する方法』(参照)の原書(参照)をこのところたんたんと読み直しているのだが、振り返って訳本を見ると誤訳とも言えないがリライトがきついことがわかった。これはたぶん、素訳をライターが原文を参照せずにリライトしているのだろう。オリジナル訳文がたぶん存在するだろうが、そこはわからないものの、原稿のリライトだとうと思われる文章執筆者は、おそらくこの本の根幹を理解していないのではないかと思った。中心概念である、Self-deceptionをおそらく理解していない。このタームが、現行邦訳では「感情を裏切って」というように「感情」を基点にしているが、原書では、感情もまた基本的にSelf-deceptionの結果となっている。Self-deceptionの原点としての感情がないわけではないが、原書のロジックでは通常の感情はSelf-deceptionの結果なのである。 邦訳がこう
朝方は涼しいが早々に猛暑再開。 昨晩、ふっと昔のユーミンの曲を聴いて、せつないというのかそういう感情に襲われた。1980年代、自分は20代だった。ユーミンの曲は、あの時代、悲恋もまた美しく語られていたが、恋愛の終わりというのは醜いものだと思う。そしてそれから30年と過ぎてなお醜い。醜いすべたが切ない感情というのは滑稽にも思えて、まるで毒が身体に回るように煩悶した。
殺人・強奪が横行する無秩序社会と無慈悲な独裁者社会とどちらがよいか。どっちもいやだというのはたやすいが、どっちかしか選べないときがある。無秩序社会のほうが自由があっていいや、ヒャッハーという人もいるだろうが、私はそうなるよりはまだ無慈悲な独裁者社会のほうがマシではないかと思う。それを称して保守主義というなら、そうでないが自由主義ですか、進歩主義ですか、ヒャッハーと答えるしかない。 これが架空の、究極の問いならよいが、残念ながら今の日本である。それでも、ブッシュ時代にはなんとか米国が抑えていたのに今では立派な内戦となったしまったシリアのようにもなっていないし、朝日新聞などがかつて称賛していた朝鮮民主主義人民共和国のようにもなっていない。本当は軍部クーデターなんだからその虚構がわからない人には現実的に教えてあげましょうと軍部がわかりやすく実力行使するエジプトのようにすらなっていない。日本はいい
レッスンの解説部分、冒頭が重要に思えた。 It is surely obvious that if you can be attacked you are not invulnerable. You see attack as a real threat. That is because you believe that you can really attack. And what would have effects through you must also have effects on you. It is this law that will ultimately save you, but you are misusing it now. You must therefore learn how it can be used for your own best interes
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