存在か当為かという対立がある。「ある」と「あるべき」は同時に助け合いながら現実を出現させる。たしかにあるがままの存在を見ることはなかなかできない。存在は「あるべき」姿という幻想によって私たちの視界に浮上する潜水艦みたいなものだ。 時折、当為を語ることによって自分の価値観を他者に押し付けているのではないかとびくびくしている者を見かける。が、その姿は謙虚に見せかけた植民地主義者の憂いである。価値観を押し付けられる主体とはいったい何か。対象は子供のように、未開の原始人のようにどんなものにも易々と洗脳され信じ込んでしまう愚かものとして思い描かれている。そこには諦められているコミュニケーションがあるが、それ以上に、私の愛によって包まれるべき他者という幻想の支配がある。 「あるべき」を強制することが植民地化を現すことよりも、あるがままを愛し、「あるべき」を禁止するという博愛にこそ植民地化が露出する。こ