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2010年6月14日のブックマーク (2件)

  • 坂のある非風景 愛なき結婚

    世の中、何十人にもプロポーズされ、結婚後もプロポーズされるようなひとに限って、氷のように冷めた結婚生活を送っている、という例証に出会って、私はじゃっかんの悲しみに暮れている。彼女の代りに、ではなく、彼女が手に入れることのできなかった愛の成就の代りにである。 そもそも伝統的な結婚とちがって、現代の結婚は「愛している」ことが脅迫的につきまといます。伝統的な結婚に要求されるのは、貞節と敬意(あるいは敬意のよそおい)だけで、結婚の結果愛するようになった(ならなかった)としてもそれは偶然の結果で、そこには愛せよという義務はありませんでした。しかし現代的な結婚には、義務として「愛する」ことが要求されます。わたしは結婚し、その結婚が愛に基づくものである以上、わたしは配偶者を愛さなければならない。それは「愛の逆説」ではないでしょうか。現代の結婚は、いまもわたしは配偶者と愛し合っているのだろうか、といった疑

    ggg123
    ggg123 2010/06/14
    そうだろうか?
  • 坂のある非風景 夜の思考、昼の行為

    ■思索と創造の対立は、夜と昼の対立である。たとえば「言葉とは何か」と問うことと「言葉をいかに駆使するか」といった対立で、以前鈴木志郎康が、なぜ夜の部分が必要なのかという素朴な問いを発したとき、吉隆明は「仕方がないんだ」という答え方をした。この「仕方なさ」の現在的な位置を問うことが最初の射程になると思う。夜と昼の対立は、意味と行為の対立のように見える。 ■問題を単純にするためにジジェクの例をひいてみる。映画『カサブランカ』のエンディングで主人公(ハンフリー・ボガート)は愛し合っているとわかった恋人(イングリット・バーグマン)を、飛行場でその夫とともに去らせてしまう。そのときの彼の行為は何を意味しているのだろうか。 1. もし恋人をその夫から奪い、一緒になったとしてもそこには苦痛が待っているだけかもしれない。いつか愛は終焉を迎えるかもしれない。夢は夢のままにしておくことがもっともうつくしい。

    ggg123
    ggg123 2010/06/14
    重要なのは、決定的な思想を獲得するといった意図的なことではなく、たったひとりの(自分の作品を愛する)読者と出会うだけで「書く必然性」が生まれてしまう、そういう偶然性ではないだろうか