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communicationに関するgitanezのブックマーク (44)

  • 体験を支える情報アーキテクチャ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 タイトルから想像いただけるとおり、昨日の「情報アーキテクチャのデザイン」の続きです。 今日は「体験」というキーワードから考えを進めてみようと思います。 情報アーキテクチャというのは、人びとがものや世界に接する=体験する際のインターフェイスの構造・骨格にあたるものです。体験・コミュニケーションを通じて味わうことになるインターフェイスのストラクチャであり、スケルトンです。もちろん、この構造や骨格がきちんと設計できていなければ、人びとの体験やコミュニケーションは無残なものとなる確率が非常に高くなります。 ところが、この大事な要素である構造や骨格というものを、物事の表面しかみない人にはみえていなかったりします。そういう人はたいてい、構造の設計、骨格の設計もなしに表面やスタイルをデザ

  • 情報アーキテクチャのデザイン: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日の「売れ続けるしくみとしてのブランド」では、ファンを育み、ブランド価値を高めていくようなブランド・マネジメントができない理由として「ちょっと複雑なしくみ=システムを設計する力がないというのもあるでしょうね。設計する力がないというか、それをイメージして考えるためのスキルをもっていない」ことを挙げ、その欠点を補うためには「情報アーキテクチャの設計を学んでおくと役だつ」ということを仄めかしておきました。 ブランディングと情報アーキテクチャを関係づける考えというのは、僕のなかではずっと以前からあるもので、例えば3年前の2006年11月に書いた「ブランド・アーキテクチャとパースの記号論」といったエントリーでもそれらしいことを書いています。そんな風に考えるのは、ブランドにしてもイン

  • 人里離れた世界で感受性を養う: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 他人とのコミュニケーションに悩むくらいなら、いっそのこと、人間関係のことなど忘れて、いったんは誰もいない自分ひとりの世界に向き合ってみるのがよいだろうと思います。 そう思うのは、昨日の「やっぱり感受性が学ぶための基礎なんだろうな」でも書いたとおり、他人とのコミュニケーションに悩んでいる人の多くが、コミュニケーションそのものの能力以前に、人との関係性以前に、非人間的なもの、非生物的なものを含む世界との交感の基礎となる感受性のほうに問題があるだろうからです。 感受性というOSに問題があるのだから、いくらコミュニケーション力という個別のアプリケーションを機能させようとがんばっても自ずと限界が生じてしまいます。 その場合、やはり基に立ち返って、OSである感受性の改善を優先したほう

  • やっぱり感受性が学ぶための基礎なんだろうな: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 物事からなにかを感じとる力。 自分が感じていることを意識のうえでも受け止める力。 客観的な知識ではなく、自分で感じたことを信じる力としての感受性。 この感受性がいろんなことを学んだり勉強したり理解したりする上での基礎となるものなんだろうなと思います。 頭がわるいとかではなく、感受性がよわい「いま勉強中です」とか「いろいろ教えてください」とか口ではいいながら、いつまでたっても成長しない人がときどきいます。たしかにそういう人は勉強していたり、いろんな人に教えてもらったりしていたり努力はしているのですが、なぜかどこか決定的に飲み込みがわるいし、みると勉強の方向性や疑問の持ち方がズレていたりする傾向があります。 程度は極端にダメなのもあれば、ちょっとズレてるなという程度のこともある

  • 「わからない」を自分で引き受ければ他人の目を気にして焦る必要はない。: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 うーん。わからなかったら、わからないでいいじゃんと思うんだけどなー。 すくなくとも焦ってすぐにわかろうとしなくてもいいと思うんですよ。 わかるとかわからないとか所詮は個人の問題だと思っています。 いや、全部がそうじゃなくて、人間社会の仕組みとしての決めごと―たとえば試験の答えだとか、法律で決められてるやっちゃいけないこととか、待ち合わせの場所と時間とか―そういうのは、決まっていることをわかる必要があって、決めたことが1つなら答えは1つです。 でも、そういう決めごとの外にあるもの―たとえば他人の気持ちとか、誰かによって主張された内容とか、自然や日常の出来事をどう解釈するかとか―を、どう見るか、わかるかは所詮は、わかる側の個人的な問題でしかない。たとえ相手に「なんで、私の気持ち

  • 古代研究―2.祝詞の発生/折口信夫: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 折口信夫さんのおもしろくてたまりません。 先日、このブログ上でも紹介した『古代研究―1.祭りの発生』に続けて、『古代研究―2.祝詞の発生』を読み終わりました。いまはさらに続けて、『古代研究―3.国文学の発生』を読んでいます。 折口さん自身が、このに所収の「神道に現れた民族論理」に「日人の物の考へ方が、永久性を持つ様になつたのは、勿論、文章が出来てからであるが、今日の処で、最も古い文章だ、と思はれるのは、祝詞の型をつくった、呪詞であつて、其が、日人の思考の法則を、種々に展開させて来てゐるのである。私は此意味で、凡日民族の古代生活を知らうと思ふ者は、文芸家でも、宗教家でも、又倫理学者・歴史家でも皆、呪詞の研究から出発せねばならぬ、と思ふ」書かれていますが、僕も折口さ

  • なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 人間にとって自己実現っていうのは、一体何なんでしょうね。 自己表現欲だとか、他人とコミュニケーションしたがる(特に自分の話を聞いてもらいたがる)というのは何でしょう。 「古代研究―1.祭りの発生/折口信夫」ですこし紹介したように、古代においては天皇が宣る祝詞で予祝(ことほぎ)されたことがらは、現実になると考えられていました。これは言霊信仰につながる話で、天皇のことばだけでなく、「見れど飽かぬ」という『万葉集』に50近くあるといわれる表現が「見る」ことで自然のもつ生命力を肉体に宿らせると考えられていたように、古代人にとっては、ことばや見ることで対象を模倣することでその対象のもつ力を自らに宿らせることができると考えられたのは「古代人にとっての装飾」でも紹介したとおりです。 こう

  • 古代人にとっての装飾: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「長い人類史のほとんどの時間の中で、デザインは豊饒の暗喩であり、人為の痕跡をうたいあげる装飾であった」とあったと述べる原研哉さんは、『デザインのデザイン』のなかで、かつての人類が装飾を必要とした理由を以下のように想像しています。 たとえば、中国の青銅器はその出現の当初より、渦巻き状の紋様によってびっしりと覆われている。この装飾はなんのためだったのだろうか。(中略)何も描かれていないプレーンな青銅器よりも、びっしりと渦巻きがほどこされたものの方が人々の注意を喚起する。なぜなら、高度な熟練による技巧と、膨大な時間に及ぶ人為の蓄積がそこに凝縮されているからである。それゆえに紋様の複雑さは独特のオーラを発しているように感じられる。青銅器は当時のハイ・テクノロジーであり、時の権威と密

  • 間違いを犯すなら自分サイズで: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「早く多く間違えよう」へのブックマークありがとうございます。 今回はちょっと補足のエントリーを。 今回もそうですが、間違える云々について書くとき、間違えられる環境であればとか、間違えてもいい場合であれば、といった限定つきで、間違えながら学ぶことへの肯定の意思を示す人がいます。 間違いの粒の大きさでも、それは僕が考えていることの意図とはちょっと違うんです。 何が違うかって、そういう人がイメージする間違いは粒がデカすぎるんです。 そんな粒の大きさで間違ったら、そりゃ、ちょっとやばい場合もあるよねって思えるような間違いの大きさを想定しているように感じます。 でも、僕が「早く多く間違えよう」という場合に想定している間違いというのは、もっと小さな単位の間違いです。いや、些細なことすぎ

  • 方法依存症2: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 どうしたらいいかと思うようなことは、たぶん、どうもしなくていいことか、どうにもならないことなのだと思う。 逆に、どうにかしなくてはいけないことなのだとしたら、どうしたらいいかなどと考えているひまがあったら、とっととやったほうがいい。 どうも考えるということを誤解している人が多いのではないか? 実行のともなわない思考はただの時間の浪費でしかない、というのに。 思考即行動頭と身体がバラバラです。自分の身体を見失ってしまっています。 悪い頭にひっぱられて、優秀な身体まで来の能力をどんどん劣化させてしまっています。 当にわかりたければ、わかる前にいわれたとおりに自分でやってみて自分を事例にするしかありません。やってみて何も変わらなければわかっていないということですし、やってみて

  • コトバとモノ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ブログを書いてる場合ではないのですが、忘れないうちにメモ(まぁ、忘れませんが)。 いわゆる狭義の人間中心設計、ユーザビリティの分野では、"Context of Use"(利用状況)を大事にします。 でも、僕自身は利用状況というコンテキストだけ重視しても人間中心のデザインにはならないと思っています。 会話のコンテキストのなかのモノそのことは僕の新しい『デザイン思考の仕事術』にも書いていますが、ようは利用品質だけでモノの価値を判断できるほど、目が肥えた人ってそうはいないでしょ?ってこと。 皆さん、自分自身のことを考えてみれば、わかると思いますが、モノの良し悪しを判断するのに友人・知人の評価やネット上のレビュー、はたまた、マス媒体の記事などなどに登場する数々のコトバを当てにして

  • 好きです - もかりのデリケートゾーン

    gitanez
    gitanez 2009/04/22
    あっ、僕も「好き」というのが好きかも。「嫌い」にはあまり関心がない。たぶん理由はおなじかなw
  • 個人ブログに関して、今思っていること - もかりのデリケートゾーン

  • 視点と経営 | コラム | ミツエーリンクス

    昨年の暮れになります。私達のWebサイトを見たと言って、ある業界のトップ企業(一部上場)の社長が来社されました。面らったのは私の方で、徹夜明けで髭も剃っていない状態で、おまけに普段着にスニーカーという按配で、対応に躊躇してしまいました。 いろいろなご質問をいただきましたが、結果として逆に多くのことをその社長から学ばせていただきました。それは何か?大企業の優れた企業トップといわれる方々は、その対象が何であれ、企業存続と成長にプラスになると思えば、そこに足を運び、自らの感性で事実を捉えようとする姿勢を持ちつづけている、ということです。真似の出来ない行動力・視点に感心し、また尊敬の念を抱きました。 今日は、「視点と経営」に触れてみたいと思います。私は最近「視点」という言葉をよく使います。またスタッフによく「視点」について話します。「視点」という言葉の意味の深さ、また企業経営においていかにクリテ

    視点と経営 | コラム | ミツエーリンクス
    gitanez
    gitanez 2009/03/24
    企業経営において、考え方の違いを言い合っても時間の無駄だと考えています。考え方を導き出した、「視点」について話せば、大概のものは解決するものであると思っています。
  • Webマーケティングを組み立てる: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ここ最近(というか、すくなくとも1年以上は)、Webマーケティングに関する話題を書いていなかったが、今日はそういう気分なので、ちょっと自分の知っていることを整理してみる(なんとなく自分的には原点のひとつに立ち返ってみようという気になったので)。 最初にこれだけは書いておこう。 はじめにラフな形でも売れるしくみの絵が描けていなければ、マーケティング・コミュニケーションは成功しない、と。最初は木を見るのではなく森を見る視点が必要なのだ、と。 時間は何より大事なので、絵はコミュニケーションをはじめる時点では一部は「絵にかいた」であってもよいが、全体の売れるしくみの絵すら描けていないのであれば、成功はおぼつかない。 やってみないとわからないというのは「絵にかいた」があってはじめ

  • 「言葉と意味、ボタンと機能」について考えるためのメモ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 言葉とその意味の一対一対応。 ボタンと機能の一対一対応。 正しい言葉、正しい操作を選択しなければ、意味・機能を引き出せないというコミュニケーション。それは人間の能力を活かしている?殺している? どうも外化(システム化)の仕方が誤っているのではないかという気がします。 近代は、M・フーコーもいうように、客観化され論理化された事実を、くもりのない鏡のように写し出すことが、言語に要求された。不適切さや不純さや伝達効率の悪さや論理の欠如は、駆逐された。しかしそのかわり、意味の複数の可能性の捨象と、論理的関係への還元が起こった。 インタラクション・システムにおける使いやすさとは? 人間中心設計と認知科学のつながり? 言葉と物のつながり? 言葉とは? 情報とは? 情報デザインとはいうも

  • 発言や質問の際に意識すること - Developer☆STYLE

    単純に自分の疑問を素直に質問しちゃう人。ようするにセミナーなどの場のコンテキストを無視した質問をしちゃう人です。 ほとんど連想ゲーム的な質問になるので、講師が話したテーマとは関係なく、自分が元からもっていた疑問だったり、あるキーワードに引っ掛かって、それを質問してしまう人。 友達や少人数での会話でならありですけど、セミナーとかだと内容の文脈とは関係ないので、他の人にとっては意味のない質問になってしまいます。 質問ができる人/できない人: DESIGN IT! w/LOVE 会議なんかでも同じだと思います。 私は恥ずかしながら、そんなに積極的に質問するタイプではありませんが、なんか難しい説明だなーと感じたら、もう少し噛み砕いて説明して欲しいし、自分の理解があっているかを確かめたくなる。 疑問が浮かんだら、最初に「この疑問はここに居る人達の大半、あるいは参加者のモデル像と共有できる疑問か?」を

    発言や質問の際に意識すること - Developer☆STYLE
    gitanez
    gitanez 2008/09/02
    そう。会議でもいっしょ。一人の質問がコミュニケーションの場をより深いものにするんですよね。
  • まわりの人を信じられるから夢にむかって前に進むことができる: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 夢をもたなければ、個人でも、組織でも、決して未来に向かって道を切り拓いていくことなどできないと思う。 「夢」という言葉があいまいで、生ぬるく感じられるなら、自分が何を実現したくて、そのために何が必要なのかという絵=計画だと言い換えてもいい。見えないものに向かって歩を進められるほど、ヒトは器用な生き物ではないと思う。見えていなければ前には進めない。どちらが前か後ろかわからないのだから。 ここまではごくごく当たり前のことだと思う。ただ、問題はそれが見えていないことを問題にすら感じない人がいるということだ。 トップが夢を描けなければ、組織は夢を見られないいま見えていなくても、それが問題だと思い、必死で探している人はよい。何がよいかと探しながら、いろいろチャレンジするうちにぼんやり

  • クリエイティブになるための1つの視点: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「どうなったらクリエイティブになれるのか」。 couldの長谷川さんが「クリエイティブになるための4つの視点」というエントリーを書いていますが、僕は心がけるのはたった1つでいいと思う。 それは 外部と能動的に関わることで変化を生み出そうと心がけること です。 外部と能動的に関わることで変化を生み出そうと心がける「外部」といってるのは、人でもモノでもいいと思います。ただし、わざわざ外部といったのは、自分とは異質なもの、違うものである必要があると思うからです。できれば、違うだけでなく似ていた方がいい。差異と同時につながりもあったほうがいい。完全に外部を客観化してしまうのではなくて、自分もその中にいれた形で「外部」を見つめられるといいと思う。「自分を含む環境」というものに能動的に

  • 企業サイト開発における非ユーザー中心デザインのすすめ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 『ペルソナ作って、それからどうするの? ユーザー中心デザインで作るWebサイト』なんてを書いた僕ですが、必ずしもすべてのWebサイト開発に「ユーザー中心デザイン」が必要とは思っていません。 むしろ、企業サイトの開発においては、むしろ、ユーザー中心デザインより先にやることがあるのは明らかです。実際、『ペルソナ作って、それからどうするの?』のなかでも企業サイトであれば、ユーザー中心デザインをする必要はないことははっきり書かせてもらいました。IDEOのデヴィッド・ケリーは言っているように「ある問題を理解したとしても、同じ方法で次の問題も解決できるわけではありません」。 当たり前ですけど、問題解決には解決する問題にあった解決方法を選ばないと意味はありません。デザインにおいて重要な