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ブックマーク / hituzinosanpo.hatenablog.com (34)

  • 弱視者の読書権を めぐって。 - hituziのブログじゃがー

    「視覚障害」と きいて、あなたは なにを 連想するだろうか。 目が みえない 点字 白杖(はくじょう) おそらく、うえの みっつは 違和感なく 感じられるのではないだろうか。ほとんど、「視覚障害者といえば点字」というイメージが できあがってしまっている。だが、すこし かんがえてみよう。 視覚障害者のなかには、先天盲や中途失明者の ほかにも、弱視者(低視力者)が いる。この点が、あまりにも かんたんに わすれられている。これは なにも、障害者と かかわりを もたない ひとに かぎらない。 倉智明(くらもと・ともあき)さんの「障害者文化と障害者身体─盲文化を中心に」『解放社会学研究』12号、31-42を みてほしい。 点字の市民権獲得をめざす盲人運動の成家として、国会議員や自治体の首長・議員選挙における点字投票、点字による郵便物の宛先表示の公認等、その流通範囲は拡大されてきている。しかし、福

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  • ドキュメンタリー『精神』 - hituziのブログじゃがー

    観察映画の周辺 Blog by Kazuhiro Soda: 岡山など、大盛況! 7月18日と19日は、映画の上映あとに監督や出演者が おはなしされるということで、19日に『精神』というドキュメンタリー映画を シネマクレールで みてきました。 『精神』は、精神障害者の日常を「こらーる岡山」という「診療所であり、居場所であり、作業所である」空間を 舞台に「観察」した映画です。監督は、想田和弘(そうだ・かずひろ)さんで、デビュー作は『選挙』というドキュメンタリーです。ひじょうに たいせつな素材を 提供してくださるドキュメンタリー作家だと おもいます。 映画の舞台が岡山だっただけに、観客さんは ものすごく たくさんでした。18日も満員だったそう。 映画は、モザイクや音楽を つかわず、スジがきもない。淡々としていますが、おもしろ おかしく、あったかい。いろんなことを かんがえながら、うるうる ない

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    gnarly
    gnarly 2009/07/20
    "なによりも、理解し、評価するのは「こちら側」であり、わたしは「こちら側」にいるんだという発想そのものを、すてさることが必要です。"
  • うたって、おどって、らんらんらん。ジャズって なんじゃら、ほいほいほい。 - hituziのブログじゃがー

    いそがしいです。なにかと。すること たくさんです。やったことも たくさんです。とーきょーにも いきましたし。なごやにも いってきましたし。そのはなしは そのうち。 ひとつだけ、たのしい映像を。 なんか、たのしそうなライブがあるというので、いってきたのです。 「ニートはジャズ」第二段 - 猿虎日記(さるとらにっき) 「ニートはジャズ」ライブ、あさくさ・だい2だん - やねごんの にっき 「ニートはジャズ」は きょう(にちようび)だYO! - ニートのあした なぜか、わたしが そのライブで うたうということになっていました。しかも、わたしが つくった曲を うたってきたのでした。人生、なにが あるか わかりません。おどろきです。 ユーチューブの動画を おみせします。のんびり、ひまなときに みてください。とりあえず、わらえます。 ニートはジャズというバンドです。「ニートはジャズ」という曲もあります

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  • 回虫テキスト集。 - hituziのブログじゃがー

    回虫という すてきなブログがあります。 まとめて よみたくなったから。つくった。「釜ヶ崎「暴動」私感」が すきです。 反靖国ー台湾「原住民」の闘争 - 回虫 死者の「追悼」について - 回虫 わざわざいうほどのことでもないのですが… - 回虫 (はてなダイアリーメモ。) - 回虫 釜ヶ崎「暴動」私感 - 回虫 抵抗歌としての「およげたいやきくん」 - 回虫 私は「日人」だ - 回虫 おもいつき - 回虫 「信仰告白」でもしましょうかね、なんかやさぐれてきた - 回虫 死刑台のメロディ - 回虫 死刑廃止:議論に向けてのメモ - 回虫 し・つ・こ・く死刑廃止 - 回虫 【著作権ヤクザ】JASRAC粉砕 - 回虫 しかし、それでも日は民主主義国家だと無邪気に信じている人々のなんと多いことよ! - 回虫 デモかデモじゃないかなんてどうでもいいじゃないか!世界恐慌が起こっているんだぞ!!! -

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  • 多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

    ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。 それを 指摘し、多数派日人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。 民族は

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  • 居場所を つくる。 - hituziのブログじゃがー

    少数派は少数であるために「目立たない」ようにも みえますが、そうではありません。社会の少数派は、なんらかの「しるし」が つけられていて、多数派の注目をあびやすい存在だと いえます。「出る杭は打たれる」ということばにも あるように、少数派は、めだつのです。その反面、多数派は社会に埋没しているぶんだけ、安全だし、アイデンティティも自由に選択できます。しいてアイデンティティをもつ必要性さえ ありません。(かくも「正しい」動物愛護 - hituziのブログ 無料体験コース) 問題は、個々人が どのように自分を 規定して名のろうとも、一方的に その自称を はぎとり、「在日」や「部落」のラベルを はりなおす ひとが いるということです。(なんのための構築主義か(少数派のアイデンティティについて)。 - hituziのブログじゃがー) 少数派は、めだつ。だから、かくれる。うっかりすると、たたかれる。びく

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    gnarly
    gnarly 2009/04/14
    コミュニティの歴史はイノセンスの毟り合いと承認権力の濫用の歴史でもある,しかし"自分の家でくつろがないということ"あるいは"(己含む)誰でもベジタリアンで外人で不審者"これらを最低限の共通了解事項にできるなら
  • 民族についての基本文献。 - hituziのブログじゃがー

    民族について、あるいは国民国家論。 小坂井敏晶(こざかい・としあき)『民族という虚構』東京大学出版会 酒井直樹(さかい・なおき)『死産される日語・日人』新曜社 ましこ・ひでのり『日人という自画像』三元社 アンダーソン『定 想像の共同体』書籍工房早山 田中克彦(たなか・かつひこ)『ことばと国家』岩波新書 西川長夫(にしかわ・ながお)『増補 国境の越え方』平凡社ライブラリー 花崎皋平(はなさき・こうへい)『増補 アイデンティティと共生の哲学』平凡社ライブラリー スチュアート・ヘンリ『民族幻想論』解放出版社 エリクセン『エスニシティとナショナリズム』明石書店 アイデンティティについては、つぎの4冊を。 石川准(いしかわ・じゅん)『アイデンティティ・ゲーム―存在証明の社会学』新評論 石川准『人はなぜ認められたいのか―アイデンティティ依存の社会学』旬報社 上野千鶴子(うえの・ちづこ)編『脱ア

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  • 教誨師(きょうかいし)の みなさんへ。 - hituziのブログじゃがー

    森達也(もり・たつや)『死刑』朝日出版社 このを よんでいて、どうしても かきたくなりました。 2006年12月の時点で、全国の教誨師の数は総計1551人。そのほぼ7割は仏教系の僧侶で、残りの3割強を神道系とキリスト教系が占めている。(185ページ) 教誨師は なにをするのか。 徳性の育成を目的とする教育活動。つまり受刑者の改悛や反省の手助けをして、社会復帰するときのために矯正することだ。でも教誨師の使命はそれだけではない。広辞苑には「刑務所で」と記述されているが、例外的に拘置所にも出入りする。死刑囚への教誨だ。(185ページ) 死刑囚は、「心安らかに吊るされるために教誨を受けるのだ」(185-186ページ)。 森達也は、教誨師のTさんにインタビューしています。 死刑囚は半分以上が教誨を受けています。一回につき30分から40分。基的に僕はしゃべらない。聞くばかりです。できるだけ聞く。そ

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  • 不平等な関係が「本名と通名」のジレンマを うみだす。 - hituziのブログじゃがー

    名? |liangのブログ まず、うえの記事を ごらんください。 いろいろな論点があるわけですが、ひとつ たいせつな点が論じられていないように感じました。それは、日社会において、多数派である日人は「名と通名」のジレンマを かかえていない。それにたいして、少数派である朝鮮系の住民だけが「名と通名」のジレンマに なやまされている。その非対称性が問題だということです。関係が不平等だということです。 少数派には通名がある。多数派には通名がない。 その不平等な関係に問題があるのですから、 そもそも「名」という名辞そのものがいかがわしくないか。当の自分どうように。というのは、もっとも「いかがわしい」ものを 放置してしまっているように感じます。もっとも、liangさんには とっくのむかしから わかっていることなのだと おもいますが。この記事で liangさんが とりたてて かいておられない

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    gnarly
    gnarly 2009/03/26
  • 差別について。 - hituziのブログじゃがー

    差別。「差別はいけません」。「なくそう差別」。 うーーん。どうなんでしょうね。ちょっと、小山エミ(こやま・えみ、macska)さんの解説を みてみましょう。 macska dot org 差別についての、ごく基的な考え まず、一番大事なこと。わたしは「差別」という言葉で社会の諸制度や、それを含んだ社会システムのことを指す用法を取り、一般に「差別」と呼ばれる個別の行為や発言などは「差別的」と呼んで区別している。つまり、特定の人々に対して「不利益・不平等な扱いをすること」という行為のレベルではなく、特定の人々が「不利益・不平等な扱い」を受けるような社会のありかたを「差別」と呼び、個々の不平等な扱いは「差別的」もしくは「差別行為」として区別している。それは、「差別」とは主に社会のありかたの問題であり、個々の行為や発言などのことではないと考えているから。 いやあ、すばらしい。そのとおりですよね。

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  • べてるの家の「弱さの情報公開」。 - hituziのブログじゃがー

    べてるの家 べてるの家を ご存じですか? わりと有名ですね。 であれば、つぎの2冊をおすすめします。 『べてるの家の「非」援助論―そのままでいいと思えるための25章』医学書院 『べてるの家の「当事者研究」』医学書院 さて。きょうは『安心して絶望できる人生』生活人新書の一部を紹介します。「弱さの情報公開」という視点です。 …「問題」を起こさないことよりも、相談する力を身につけることと、浦河[うらかわ]流のいい方をすると「弱さの情報公開」が、地域の中で生き抜く大切な条件となるのです。 世は「個人情報保護」の時代です。しかし、個人の持つ情報の中で秘匿[ひとく]すべき情報はごく一部で、ほとんどが地域で暮らす一人の市民の有用な生活体験として共有すべき大切な情報なのです。ですから、早くから浦河ではそこに着目して、「弱さの情報公開――困った体験、失敗の体験、苦労の体験の公開」を提唱してきました。 「弱

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  • なんのための構築主義か(少数派のアイデンティティについて)。 - hituziのブログじゃがー

    「われわれ」を想像する権利 - Danas je lep dan. うえの記事の、最初の部分に違和感がありました。全文は うえのリンク先を よんでください。一部分だけ引用します。 前に書いた 真に他民族を尊重するということ - Danas je lep dan. の補足のようなもの。 ぼくは前々から構築主義※1を支持しながらアイヌなど少数民族の民族復興運動をも同時に支持している事について矛盾があるのではないかと感じていて,その二つの立場の整合性を取ろうとしたのが前掲エントリなんだけれど,図書館で雑誌をパラパラとめくっていたらしっくりくる表現を見つけた。 ※1:構築主義と源主義の違いについては,質主義と構築主義 - Danas je lep dan.を参照。 「構築主義を支持」するなら、「アイヌなど少数民族の民族復興運動をも同時に支持」するのは「矛盾」でしょうか。そんなことはありません。

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    gnarly
    gnarly 2009/03/13
    思い出したこと→ナオミ・ショアーの「ひとつではない本質主義」/90年代OCCURにおける"戦略的本質主義"に関する証言: http://d.hatena.ne.jp/femmelets/20071029#1193661194
  • 朝鮮人差別について。 - hituziのブログじゃがー

    三浦耕吉郎(みうら・こうきちろう)編『構造的差別のソシオグラフィ』世界思想社 「私たちがある種の関係性のなかにおかれると、個々人のなかの偏見や差別意識の有無とは無関係に、差別に荷担させられたり、差別を引き起こしてしまうことがある」(みうら「序章 〈構造的差別〉のソシオグラフィにむけて」3ページ) マイノリティについて - hituziのブログじゃがー マイノリティは、ただマイノリティなのではない。マジョリティ(多数派)との関係において、マイノリティであるのだ。 日国籍を 一方的に おしつけ、うばいとる。 さて、かんたんに歴史的事実から。在日コリアン弁護士協会 LAZAK編著『裁判の中の在日コリアン』現代人文社より。 1910年のいわゆる日韓併合によって、朝鮮は日の領土とされ、朝鮮人は一律に日国籍を取得しました。その後、日による朝鮮半島の植民地支配が行われていた間、日国籍を有し、日

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  • わしもスターダストや(福祉労働者のために)。 - hituziのブログじゃがー

    京都大学時間雇用職員組合 Union Extasy : 個人ビラ(挑戦状)作りました(文責:unagi) わたしは、ユニオンエクスタシーのストライキに、心から賛同します。 わたしも、福祉の現場に身をおくスターダストです。 やっすい給料で、慢性的な人手不足で、かんがえつめたら ゆーうつになり、けれども やめるということが できないくらいに たくさんの笑顔に ひきとめられ、けれども いつも笑顔なわけじゃないという当然なことに胸を しめつけられ、ただ、いろんなことを ごまかすことで、毎日の しごとを こなしていく。 福祉労働者は、ゆーうつになるヒマもない。 社会が排除した。その排除とセットにあるものが、福祉施設だ。 どう かんがえても、おかしい。施設で 利用者の生活を 制限する。管理する。うばいとり、あたえる。それを させているのは社会だ。 けれども、現場に いないことで、だれもが わすれてしま

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  • ヤスクニは宗教的に ふるまうことで機能する軍事施設である。 - hituziのブログじゃがー

    ヤスクニは軍事施設である。それは、たくさんのひとが指摘してきたことだ。はじめて きいた意見であるなら、「靖国 軍事施設」で検索してほしい。 『天皇・天皇制をよむ』東京大学出版会から おさらいしよう。 戦前において靖国神社は、陸軍省・海軍省が共同で所管し、天皇自らが戦没者の霊を祀る[まつる]ためにしばしば親拝(天皇自らの参拝)するきわめて特殊な、天皇の国家の戦争政策と切り離すことができない神社であった。靖国神社の責任者である宮司には退役陸軍大将があたり、神社の運営費は陸軍省予算から支出され、社域の警備には憲兵があたっていた。(238-239ページ) ヤスクニは、だれを まつったのか。 …祀られた戦没者は、日人であっても、あくまで天皇制政府側に限られ、戊辰[ぼしん]戦争における旧幕府側や西南戦争における薩摩[さつま]側の戦没者、あるいは佐賀の乱・竹橋事件などにおける反乱者(処刑者)などは除外

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  • だれが「菜食主義」と名づけるのか。 - hituziのブログじゃがー

    「菜主義」という表現に ひさしぶりに接して、苦笑してしまいました。いやあ、わたしは ほんとに菜主義というフレーズが きらいなんですね。 菜主義といえるかもしれないのは、ビーガン(vegan)の ひとたちですよね。16才のころの わたし。ビーガニズム(veganism)=菜主義とは いえるでしょう。けども、菜主義というのは やっぱり いやで、脱肉や非肉主義などと表現したい。 菜主義って、どう かんがえても自称するための表現じゃないですよ。たんに菜なら ともかく。 「わたしは菜主義者よ。あなたは肉主義者ね。」 わらえませんか? それにしても、「肉主義」。どうですか。あなたは肉主義ですか。もっといえば、肉至上主義ですか。 いまの日では肉は制度化されています。それが当然のものとされています。ですから、現代日は肉主義社会と いって かまわないはずです。強制肉社会

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  • オカルトなナショナリズムに支配された社会であるということ。 - hituziのブログじゃがー

    いまだに日に天皇制というものがあるということは、要するに、日社会は きしょくわるいくらいにナショナリズムが のさばっているということだ。ウヨクに支配された社会。反動保守というか、そもそも前進したことなんて ほとんど ないじゃないか。天皇制は ゆるがず、戸籍制度を 廃止しようという主張は 存在すら認知されていない。 天皇誕生日だの、建国記念の日だの、みどりの日だの、昭和の日だの、くそくらえだ。ふざけるな。 いまね、みどりの日 - ウィキペディアを みたよ。あきれるね。 国民の祝日に関する法律(祝日法)では「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ことを趣旨としている。…中略… 1948年の祝日法施行以来、昭和天皇の誕生日である4月29日は、国民の祝日である「天皇誕生日」とされていた。その後1989年(昭和64年)1月7日の今上天皇即位により、天皇誕生日は今上天皇の誕生

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  • ドキュメンタリー映画『靖国』(ヤスクニは軍事施設だ)。 - hituziのブログじゃがー

    わたしは大学生のころ ペキン語(漢語)を かなり べんきょうしました。チューカ料理屋で4年間 バイトしながら調理補助と通訳みたいなことを していたので、それなりに上達しました。 さて、ペキン語を まなんだことの ある みなさん。中国台湾にいって、日人が ペキン語を はなすということが めずらしいというだけで、ほめられたり、感謝されたり、それだけで親近感を もっていただいたり…。たくさんの たのしい経験を したはずです。わたしも そうでした。その一方、日人が だれかに、日語を べんきょうしてくれて ありがとうということは、かなり すくないように感じます。西洋人が べんきょうすると、にやにやしながら おもしろがる ひとも いますが。 さて、ドキュメンタリー映画の『靖国』。異様な別世界のような きもちわるい空間。それが靖国神社です。わたしも一度いきましたから、よく わかります。ここに、た

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    gnarly
    gnarly 2009/01/27
  • 食料危機は なぜおきるか。 - hituziのブログじゃがー

    その地域での主は、その地域で つくるのが重要なことです(ここでいう「地域」は、国家などの規模だと かんがえてください)。なぜか。 そして、この世界では主である穀物を 輸入に 依存している地域がある。それは なぜなのか。 ここに、南北問題がある。 日でも、コメ騒動がおきた。1993年のことだ(1993年米騒動 - ウィキペディア)。タイ米が おいしくないという、たいへん失礼な声が でてきたのを、よく おぼえている。 ひとつ、しらなかったことがある。それは、あのとき、タイ米の輸入に せりまけた地域があったということだ。日が 突然 輸入した あの米たちは、いつもは どこに とどいていたのか。佐久間智子(さくま・さとこ)「糧自給と自由貿易」『オルタ』2008年 7・8号を みてみよう。 冷夏によってコメ不足に陥った日は国際市場からコメを買い漁り、挙句の果てにタイ米などを大量廃棄していた

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  • 肉を たべたいというのは、動物を ころしてでも たべたいということだ。 - hituziのブログじゃがー

    動物園や水族館で「いってはいけない」ことばがあるそうだ。それは、「おいしそう」だという。なぜそれが、いってはいけない ことばなのか、わたしには理解できない。 ここに単純な事実がある。肉を たべるということは、動物を ころすということだ。肉が たべたいということは、動物を ころしてでも たべたいということだ。ころしたくはないけど たべたいということは、それこそ「いってはいけない」わがままであるはずだ。動物を ころして たべる。それが、肉者の日常なのだ。 わたしも消極的にだが、肉を たべている。だから わたしは動物を ころしていることを わすれるつもりはない。動物の死体を 加工したものが 肉料理である。それを おもいだしたり想像するのが いやならば、肉を たべなければ いいことだ。平気で動物を ころすことができるから、肉を たべているのだ。平気で ころせないなら、なれるまで、平気で ころせる

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