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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/nanari (10)

  • 2008-01-19 - 七里の鼻の小皺

    一目で、誰もが恋してしまう鳥居みゆき。はじめてみたとき、批評的な判断を忘れた。事後的に(恋した後で)、これがヒステリーの問題なのだと分かる。2chなどで繰り返される、これが擬態(詐病)か否かという議論は、したがって意味をなさない。擬態こそが、ヒステリーの力だからである。そして鳥居みゆきの美しさは、その芸にとって必然的な要素であることが分かる。ヒステリーは、みられることによって成立する病だから(鳥居の対話芸は、いかに精神分析的にみえようとも、依然としてきわめてシャルコー的なものだ)。彼女は美しいから病んでいるのでも、病んでいるから美しいのでもない。美しさを病んでいるのだ。●この病が、彼女の卓抜な演技力に支えられていることは、ほとんど疑いがない。「麻衣子」(http://jp.youtube.com/watch?v=OsyS0te5zJU)にせよ「数子」(http://jp.youtube.c

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    gnt 2008/01/17
    「美しさを病んでいる」。佯狂はいつでも美しい。
  • 七里の鼻の小皺 - 2007-10-08 - 『ドラゴンクエスト3』RTAについて

    ゲームをめぐる言説の水準は、ますます高くなっているようです。ゲーム学会(http://www.dmic.org/game/)や日デジタルゲーム学会(http://www.digrajapan.org/)、それにいくつかの大学の研究室が、ゲーム研究の中核として浮び上がってきています。ネット上に読まれるゲーム批評の議論も、厚みをましてきました。 そのようなわけで、素人がうっかりと大きなことを言うべき状況ではないのかもしれません。もちろんひとなみに、思い入れのあるゲームはありますし、とくにRPGについては、いろいろと論じてみたいこともあるのですが(このブログは、『MOTHER』を再プレイしているという記事から始まったのでした)、今回はあえて作品評に飛びこむのではなく、ゲームプレイの一状況について、ファンとしての感想を書いてみました。 ■『ドラゴンクエスト3』RTAについて 最近もっとも心震

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    gnt 2007/10/11
    RTA=リアルタイムアタック。熱の入り具合が真正引き篭もりの人とかぶる。
  • 七里の鼻の小皺 ニッキを繰り返すとどうなる

    gnt
    gnt 2007/04/03
  • 七里の鼻の小皺

    『ONE PIECE』を読んで泣くときの、涙を相対化することが、もちろん批評の入り口ではある(最近は、それ以前の共感の共同体を個別に代表する「職業批評家」が多すぎるようだが)。そして、言うまでもなくわれわれが問題としているのは、その入り口をとおりながらも、「相対化された涙」を再度当に泣くことだけなのだ。たとえば『ONE PIECE』は、「打算のない正義」を語るために、しばしば歴史をもちだす。当然、そこで語られた歴史だけに立脚した「正義」は相対化されるべきものだ。主人公たちの「正義」の背後で、語る権利なく死んでいった人々の無数の歴史があり、同じだけの数の「正義」がある。しかし、問題となるのは、主人公たちの「正義」を笑うことではもはやない。少年マンガのなかの語られなかった無数の「正義」を、同時に泣くことだけが現在ありうべき批評なのである。一人のための=万人のための涙。共感に根ざさない実効力。

    gnt
    gnt 2006/11/21
    お?プライベートモードになってる。
  • 七里の鼻の小皺 - 対象をもたない愛(1)――「萌え」・「大切な何か」・『トップをねらえ2!』・『Anisopter』

    対象を失った愛は、涙の国の極限でわれわれに明日を与える。この世では手に入らないものを愛していると自覚しながら、なおこの愛のための抜け道を人生のなかに探すとき、われわれは、結局は一度も与えられなかった世界、輝かしい無償性を受け止めてくれるはずだった世界の可能性を生き始める。「萌える」とは、対象をもたない愛の感情である。その強さは、愛の不可能性を恥じながら、結局は何も諦めきれないだろう自分への矜持を辛うじて持続させようという意思に、遠い理由をもっている。この愛が、自分の心の内に根を降ろしていて、そしてまた、自分自身の他には行き着く先をもちえないだろうという意識のうちに、「萌える」という単語の植物的自発性が慎ましく場所を得ているのだ。「萌える」という言葉については、重要なことはまだほとんど何も言われていない。人々はあまりにもしばしば、この言葉について比喩的に語り、類似性のうちにそれを見失ってきた

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    gnt 2006/11/08
    素晴らしすぎる。そしていろいろと考えた。
  • 七里の鼻の小皺:これを意識的に読んでくださっている、みなさまへの「私信」

    gnt
    gnt 2006/05/24
    「ただ、ブログでくらいは、書けない時期に忠実でいたいという気もしています。」勇気ある宣言。/……「ななりんこ」だァ!?!?
  • 2006-02-21 - 七里の鼻の小皺

    最近、このサイト上でのエッセイマンガについての考察は、それほどすすんでいない。しかし、やはりエッセイマンガについて書きたいという思いはつねにある。最近では「倒錯社通信局」の、力の入った桜玉吉論が、その思いを新たにさせてくれた(http://tosaku.sakura.ne.jp/news/2006/02/post_18.html)。今回は、「絵日記サイト」を、エッセイマンガの最も新しい領域として考える可能性について。 ■マンガの喫水線(3)――エッセイマンガとしての絵日記サイト 絵日記サイトと呼ばれる一群のサイトがある。人気サイトも多く、すでに書籍化されているものもいくつかあり、一定のジャンルとしてすでに十分に認知されていると言っていい。それらのサイトは、主に自らの日常生活を主題に「絵日記」を描いているわけだが、いわゆる絵日記とは随分と異なり、むしろコママンガに近しいものであることが多

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    gnt 2006/02/21
    絵日記サイトリンク集と批評
  • http://d.hatena.ne.jp/nanari/20060113

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    gnt 2006/01/13
    外さないなぁ
  • http://d.hatena.ne.jp/nanari/20050112

    gnt
    gnt 2006/01/11
    あー。熊殺しと獅見友で五十嵐-舞城論とかできるかも。かも。
  • 七里の鼻の小皺 - 来るべきあびゅうきょ論のための避雷針として

    ■[マンガ]来るべきあびゅうきょ論のための避雷針として あびゅうきょの新刊『絶望期の終り』が、ある遅れをともなって手元に届いた。「あびゅうきょの新刊」という言葉の響きは、ある人々にとっては、それだけで不思議に心地良い違和感をもたらすものかもしれない。その違和感は、あびゅうきょが寡作の作家でありつづけてきたという事実にだけではなく、この作家の負っている歴史の重みにも拠っているのだろう。 82年から、『リュウ』や『プチアップルパイ』などの商業誌に作品を発表し始め(やはりその頃に編集としての仕事を開始した大塚英志の目にとまったのがきっかけだった)、宮崎駿の存在を真に受け止めながら描き続け、やがて95年前後、「エヴァンゲリオン」によって大きく揺れ動いてゆくことになる同人誌の世界に深く入り込み、庵野秀明の問いかけを驚くような仕方で読み換えつつ全身で生きながら、いくつかの独自のスタイルを探りあて、そ

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