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ブックマーク / sivad.hatenablog.com (6)

  • 科学技術立国と研究費のこれから。 - 赤の女王とお茶を

    まず大前提として、現在の研究プロジェクトになにかしら問題があったとして、その責任は第一にプロジェクトの統括者にあるべきもので、その下で働くために集められたポスドクや院生がもっとも大きなダメージを負う、というのはおかしな話です。 プロジェクトの責任者は研究費が凍結されたとしても職を失うことはほとんどないでしょうが、ポスドクや院生は生活費を失うことになります。 そもそも長期的視点で科学をやる、というのであれば、5年以内の短期プロジェクトに学生や若手の生活が依存している、という状況そのものがおかしいと考えねばならない。 なぜこういうことになっているのか、「科学技術立国」という錦の御旗と共に少し考えてみたいと思います。 まず、一口に研究費といっても、日では大きく二つの系統があります。 1.校費または運営費交付金 2.競争的資金 です。 簡単に説明すると、「1.校費または運営費交付金」というのは大

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    gruza03
    gruza03 2009/12/06
  • 科学政策に関する公開質問状を各党に送ったよ - 赤の女王とお茶を

    最近マジメな話ばっかりだなぁと思いつつも、まあものごとタイミングがあるからということで。 先日、民主党の科学政策ってどうよという記事を書きましたが、かといってどこなら素晴らしい、というのも見えてきません。 そこでNPOサイコムさんと相談のうえ以下のような質問状を作成しまして、自民党、民主党、公明党、共産党、社民党、国民新党、新党日、改革クラブさん宛に送付いたしました*1。 サイコムさんのほうからも発表があるかと思いますが*2、取り急ぎこちらでも紹介させていただきます。 a)科学技術研究全般について 日の科学研究は1995年に制定された科学技術法、および5年ごとに策定される科学技術計画により重点分野が明確に示され、競争的資金が投入されるようになりました。 しかし一方で、応用研究と基礎科学の峻別がうまくなされておらず、巨大プロジェクトの実用化へのロードマップが不明確であったり、多様

    科学政策に関する公開質問状を各党に送ったよ - 赤の女王とお茶を
  • もちおさんと集合知の奇妙な冒険 - 赤の女王とお茶を

    ブコメでも書いたんですが、「エリートが集まって円卓会議で世の中をよくする」、というビジョンはまあいっても古典的ですよね。 もちろん集まって議論するのはいいことだしどんどんやれと思いますが、もちおさんがそもそも打ち上げた「集合知」というのは全然そういうものじゃありません。 優秀な者が集まって世の中を導くという考え方は哲人政治あたりから旧ソ連の計画経済まで根強くありますが、「集合知」というのはその弱点をおぎない、かつ超えるところにこそ凄みがあるし、20世紀の最大の発明とも呼べるわけですよ。 エリート主義の問題点は、彼彼女らが何をやっているかということを考えれば分かりやすいです。 エリートは状況を抽象化、モデル化し、そのモデルに従うように人々を指導、誘導します。 もちろん、うまくいくケースもある。目的が単一かつ明確で、状況に多様性や多面性が少ない時にはこれが大きな威力を発揮するでしょう(エリート

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    gruza03
    gruza03 2009/06/06
  • 日本はそろそろノーベル賞のクレクレをやめてもよい国だと思う - 赤の女王とお茶を

    今年のノーベル賞はいろいろな意味で興味深かったし、質の高いエントリが沢山書かれたと思います。 研究の奥深さや学問の素晴らしさがアピールされる一方、ノーベル賞の不完全さにもスポットライトが当たった点が特に面白かったですね。 例えばこんな記事たち。 Douglas Prasher博士のケース、ノーベル化学賞の裏側で このかたは、下村博士のおられたところ同じ海洋研究所にいて博士がみつけたGFPタンパク質の遺伝子をつかまえてその配列やアミノ酸配列を決めたものでした。 それで、まさにこの遺伝子をもちいてチャルフィー博士など今回の受賞となった研究をしようとしたのだけれども、継続困難で、研究費を打ち切られ職もうしなってしまったのだそうです。 日にノーベル賞が来た理由 戸塚洋二博士(1942-2008.7.10)です。戸塚さんこそ、ノーベル賞をもらわないわけにはゆかない人でした。 なぜ「大してうれしくな

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    gruza03 2008/10/10
  • 倫理の根拠とお水のセカイ(本編) - 赤の女王とお茶を

    こちらの編。 まだまとまりきっていない話ですし、分かりやすくかけるか怪しいところですが。 「水伝」など多くのニセ科学批判の文脈で基となる考え方の一つに、「科学は倫理を与えない」というものがあります。あるいは、「である」は「べき」を導かない。ヒュームの法則、または自然主義の誤謬、とも表現します。 科学はセカイが”How”「どのように」「ある」かを明らかにするものであって、どのようにある「べき」か、つまり倫理や規範を定めるものではない、ということです。もちろん、ゴーヤの佃煮を作るときは五倍酢をつかう「べき」だ、コーヒー豆は封を開けたら冷蔵庫にいれる「べき」ではない、というように、ある状態を達成するための手順について科学が「べき」を与えることはあります。 しかし、どう生きるか、のような根源的なレベルにおける、向かうべき「目的」を科学知識そのものが規定することはないよ、というのが科学的思考にお

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  • 市場・原理主義 or 市場原理・主義? - 赤の女王とお茶を

    文をどこで区切るかで意味が変わってしまう言葉遊びを「ぎなた読み」、というそうです。 有名なのでは、 ・「ここではきものをぬいでください」→ここでは着物を脱いでください/ここで履物を脱いでください ・「ふたえにしてくびにかけるじゅず」→二重にして首にかける数珠/二重にし手首にかける数珠 ・「けいざいはきゅうこうか」→経済波及効果/経済は急降下 ・「おもいこんだら」→思いこんだら/重いコンダラ(?) なんかがありますね。 で、今回サブプライム問題から端を発したアメリカの金融破綻。 「市場原理主義の限界」「いややはり市場原理主義は生き残る」 などなど百家争鳴でなかなか面白いのですが、この「市場原理主義」って言葉も考えてみるとやっかいなものではないでしょうか。 市場・原理主義。 市場原理・主義。 ぎなた読み的に区切る場所を変えることで、ほとんど正反対に近いくらいに意味が変わってくるのです。 市場・

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