ルーマニアの孤児問題は、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権時代に悪化し、1989年のルーマニア革命で共産党政権が崩壊すると、諸外国にもその存在が明らかになった。国際的な支援がなされた結果、当時と比べると状況は大幅に改善したが、いまだに多くの問題を残している。 出生率(赤)。法令第770条が出されてから急増している ナタリスト政策を推し進めたチャウシェスク ニコラエ・チャウシェスクの政権下では、中絶と避妊がいずれも禁止されていた。チャウシェスクは、人口増加が経済成長につながるとの考え方をもっており[1]、1966年10月、法令第770条 (Decree 770) と呼ばれる法律が制定された。これは、母親が40歳を超えているか、既に4人の子供を育てている場合を除いて、中絶を禁止するというものであった[2]。この法律により、出生率は、特に1967年から1969年にかけて、大きく上昇した[3]。1