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柳田國男に関するhannoverのブックマーク (4)

  • 日本近代史の中の日本民俗学-柳田国男小論

    ▼日近現代史の中で逆立された人物と学問 戦後1970年ごろ、政治的には「平和主義」と「小日主義」を後生大事に唱えながら高度経済成長を続ける列島国家は日人論ブームに覆われた。この国は「大日」となる時代、自分自身を問いたくなる。戦前の大東亜共栄圏の夢は軍事政治的には潰え去ったけれど、経済的覇権としてそのイメージが甦ったのだ。なぜ私たちは「大日主義」の時代になると「日」「日人」を問いたくなるのだろうか、外部より内部に目を向けたがるのだろうか。この問いに筆者はいま簡単には答えられない。だが、この思考の原型を創ったのは柳田国男であるとだけは言える。この小論ではその柳田国男と彼が樹立した日民俗学を、波乱の日近現代史の中にしかと位置づけて考えてみたい。 あらかじめ見通しを述べておくと、日民俗学の祖・柳田国男という人物像も、彼が見出した常民としての日人像も、日近現代史の中で逆立され

  • 柳田國男 - Wikipedia

    柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日の民俗学者・官僚。大日帝国憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた[1]。日学士院会員、日芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。 「日人とは何か」という問いの答えを求め、日列島各地や当時の日領の外地を調査旅行した。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。 生涯[編集] 柳田國男の生家(兵庫県福崎町) 布川での居宅(茨城県利根町) 柳田國男(1951年) 生い立ち[編集] 1875年(明治8年)7月31日、飾磨

    柳田國男 - Wikipedia
  • 佐々木喜善 - Wikipedia

    佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年10月5日 - 1933年9月29日)は、日の民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。一般には学者として扱われるが佐々木自身は、資料収集者であり学者ではないと述べている[1]。 来歴・人物[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "佐々木喜善" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年8月) オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日のグリム」と称される。 岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な

  • 柳田国男 遠野物語

    [#改ページ] この話はすべて遠野(とおの)の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨(さく)明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪(たず)ね来(き)たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手(はなしじょうず)にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減(かげん)せず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷(ごう)にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広(ちんしょうごこう)のみ。 昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻(はなまき)より十余里の路上には町場(まちば)三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少(きしょう)なること北海道石狩(いしかり)の平野よりも甚(はなは)だし。或いは新道なる

    hannover
    hannover 2013/01/05
    宮守の元ネタですね
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