1918年(大正8年)三重県三重郡三重村(現:四日市市)に生まれる。幼少時は、ロンドンで7年間、上海で3年間を過ごした。長崎県の旧制大村中学校、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業。海軍予備学生となり、敵暗号の解読にあたる。海軍通信学校で予備学生の1期下である阿川弘之(後に作家)らを指導し、情報戦の重要さを説いた[1]。服部は鉄拳制裁を辞さない鬼教官であった。 日本銀行に入行後、フルブライト基金によりアメリカに留学、ミネソタ大学大学院で学ぶ。帰国後パリに3年間駐在し、同銀行外国局渉外課長をつとめる。パリ時代にフランス・フランの通貨切り下げ(英語版)を2回経験し、その政策や国庫制度を調べる。帰国後は東南アジア中央銀行職員研修に参加し、ボンベイ、カラチなどに滞在。当地での体験が経済発展についての考え方に影響を与える。 1964年(昭和39年)12月30日に国際通貨基金の依頼を受け、ル