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ブックマーク / azumy.hatenablog.com (14)

  • 自分が中年女になって気がついた - 深く考えないで捨てるように書く、また

    子どものころ、若かったころ、自分の目に映る母の姿は、なんとも保守的に見えた。 私はを読むのが大好きだったし、父はよくを読んでいたけど、母はほとんど読まなかった。読むのは、婦人雑誌や料理レシピくらい。それも、自分が思春期になるころにはほとんど読まなかった。 私には読書を薦めるようなことを言うので、「お母さんは読まないの?」と訊くと、「ちょっと読むともう目がチカチカして、頭痛がしちゃう」といつも答えるのだった。 また、母は私に比べると、漢字やちょっと凝った言い回しをあまり知らなかった。テレビのクイズ番組などを見ながら、「あー全然わかんないー、azumyはよく分かるわねぇ」と言っていた。雑学知識も、私のほうがよく知っていた。 母は生まれてから今に至るまで給料をもらう仕事をしたことがなく、ずっと専業主婦だった。何かにつけ「私は分からないわ」「私はダメだわ」「あなたはすごいわねぇ」と言い、

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  • 子どもの「なぜ」と大人の「何故」 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味 こちらを読んで、ふと思ったこと。 子どもはやたらに「なぜ?」「どうして?」と言う。 子どもにとっては、世の中にはどうしてだか、なぜだか分からないことがたくさんあって、それを知りたいと思うからだ。それは他人の心理や行動に対しても同じことで、「どうしてお母さんはこう言ったの?」「どうしてお父さんはそうするの?」ということをあまりタブー感なく言う。 やがて、いろいろなことを学習して、ものごとの仕組みや理由、からくりが分かってくると、「なぜ?」「どうして?」が少なくなる。一つには、分からないこと自体、身近な範囲では少なくなってくるということ。もう一つは、自分がすでに知っていること、分かっていることを材料にして、今分からないことを推察したり考察したりして、自ら「分かる」ことができるようになることがあるのだろう。 と同時に、周囲の

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  • ブログに書くことは - 深く考えないで捨てるように書く、また

    気がついた。 自分が書きたいことを書いているんじゃなくて、自分が読みたいことを書いている。 書くのはたった1回だけど、読むのは何度でも読める。 こうして書くのは、書くためではなくて、読むためだ。今は読まなくても、やがて来る将来に読むためだ。自分の読むものをここに溜めている。

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  • ブルドーザーのごとく - 深く考えないで捨てるように書く、また

    歩いているとき、進路に障害物があれば、まあ通常は、進路を変えて避ける。 狭い道などで進路を変えられない場合は、障害物を動かして退けるか、自分が身を小さくしてすり抜けるか、なんにしろそういうふうにする。 ぼーっと歩いてると、障害物に気がつかなくて、ドカンとぶつかることもある。そういうのは自分も痛い思いをして嫌だから、まあ大抵は周囲を軽く注意しながら歩く。ジロジロ見なくても、ちょっと視界に入れば、ぶつからなくてすむ。 障害物があるのがわかっていて、でも進路をてこでも変えなくて、そして見事にドーンとぶつかって、「このヤロー邪魔くせぇ」と障害物にパンチキックをくらわせたり、「自分はここを歩くんだから何があっても知らん」とばかりに、障害物をブルドーザーのごとく押し退けて、寄ると触るとなぎ倒しながら歩く、という人は、意外と少ない。いないことはないが。 で、そういう人は、なんとなく「近寄っちゃいけない人

    ブルドーザーのごとく - 深く考えないで捨てるように書く、また
    hejihogu
    hejihogu 2008/02/01
    人を見つけると突っ込んでくるブルドーザーもいる
  • 子どもに頭を占拠される - 深く考えないで捨てるように書く、また

    中学・高校時代の友人と仲間うちのMLを作っており、そこで互いに近況の話だの、お祝いごとの話だのをしている。MLに移行する前は掲示板を使っていた。 初期の話だが、当時私は結婚したばかりでまだ子どもがなかった。30歳すぎくらいだ。そのころ掲示板に出入りしていたメンバーは、半分くらいが結婚して子どもがあり、あとの半分は独身だった。ちなみに全員女性。結婚したけど子どもがいない、という者がいないのは、全くの偶々だ。 近況報告といっても、普段の暮らしでそんなに報告するような話もなく、掲示板の進行は良く言えば極めてまったり、どっちかというとほとんど過疎であった。しかし、時に誰かが書き込むと、それに呼応するようにレスがついたり、私は今こうだよ、と別の方面から近況報告がある、といった感じ。もともと、みんなどうしてるかな、書きたい時に適当に書けばいいよ、というゆるい使い方なので、それでなんの問題もない。 ただ

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  • 私の見ているあなたは、あなたではない何か - 深く考えないで捨てるように書く、また

    生きて暮らして他人と接していれば、他人に対して、勝手に自分の思い込みや思い入れを重ねてしまうことはどうしてもあるってものだ。程度の差はあれ。 しかし、その相手と何度も接していると、そういった自分の思い込み、思い入れは実際のその人とは異なっている、違っている、ということに気づくこともまた多い。 大抵の場合は、そこで、ああ、そうか、私が勘違いしていたんだな、勝手に思い込んでいたんだな、と思って、自分の中での「その人像」を修正する。何度も微修正しつつ、関係が続いていく。 どうして自分の思い込みと違うと気づくか、というと、これはけっこう細かい状況の積み重ねだったりする。 日常の生活の中では、面と向かって議論するとか、意見交換するとかいう機会はあまりない。むしろ、なにげない普通の会話の中で「あ、この人こういう人なのか」と気づいたり、ちょっとした行動や表情で「こういう時はこういうふうに思う人なんだな」

    私の見ているあなたは、あなたではない何か - 深く考えないで捨てるように書く、また
    hejihogu
    hejihogu 2007/12/01
    コミュニケーションとしてみると、情報量の差があるネットとリアルだけど、一見分かったように思えるリアルでも実は単なる思い込みだったなんてのが多そう。
  • 中くらいの声でしゃべる - 深く考えないで捨てるように書く、また

    ちょっと前に書いたこの記事。 ネガティブコメントってこんな感じ? - 深く考えないで捨てるように書く たくさんの反応をいただいた。どこにそんなに反応があるんだよ、と思われる方はこちらをご覧ください。 はてなブックマーク - ネガティブコメントってこんな感じ? - 深く考えないで捨てるように書く ご意見の中によく見られたのは、記事の前半に書いたような立場、つまりネガティブコメントをもらっていきなり驚いてしまう立場の人に対して、「でも誰にでも聞こえるような大声でしゃべってるわけで」という内容だった。拡声器で叫んでる、パブリッシュしている、などの表現を使われた方もいる。 これについては私も同意見だ。ネットに書いた時点で、例え独り言のつもりであっても、ネットの果てまで明瞭に聞こえるような大声となる。 そこで思ったのだが、中くらいの声でしゃべりたい、というニーズに対して、ネットは何を提供できるだろう

    中くらいの声でしゃべる - 深く考えないで捨てるように書く、また
    hejihogu
    hejihogu 2007/10/07
    声の大きさ的な中くらい。ネットでの情報伝達を中くらいで行いたいというニーズは分からなくもないが、機能的には難しそう。中くらいは情報の受けて側の取捨選択で実現するのが一番現実的か。
  • ネガティブコメントってこんな感じ? - 深く考えないで捨てるように書く、また

    街を歩いていて、別に普通に友達となんか話しながら歩いていたら、突然遠くから知らない人がつかつかと近づいてきて「お前、ひどい奴だな。人格を疑うね」とか一言浴びせられて、またその人はさっさと去ってしまった。言われた方はびっくりするやら、腹が立つやら、怖いやらで涙目だけど、だいたいあの人誰よ? 全然知らない人だよ、なんで関係ない人にあんなこと言われなきゃなんないんだ、みたいな。 一方。 街を歩いていたら、あちらで、なにか仲間内でひどいことを話している奴らがいて、それで楽しそうに笑い合ったりしてるもんだから、ひどい奴らだな、あんな無茶苦茶な内容のことで笑えるなんて頭どうかしてんじゃないのか? と思ったので、他人事とは思いながらもスルーできずに「お前らひどいな、人格を疑うよ」と口に出してしまったら、それが相手に聞こえて、相手がなんか怒りだしたり泣きだしたり。まあでも所詮関係ない他人なので、一人で怒っ

    ネガティブコメントってこんな感じ? - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 違う人間≠敵対する人間 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    私とあなたは違う人間。あなたと私は違う人間。私と他人は違う人間。 これは当たり前といえば当たり前なのだけど、これを安定して受け入れるためには、それなりの基盤が必要なんだろうと思う。 言うなれば、違う人間=敵対する人間、ではない、という認識。 この認識は双方向ある。一方向は、自分と異なる考え方、感じ方をする人に対して、それは違ってる、よくない、だめだ、と攻撃する必要は必ずしもない、ということ。*1 もう一方向はその反対。自分と異なる考えや感じ方をもつ人はすべて、常に、自分を攻撃してくるというわけではない、ということ。 自分が何か意見を述べたとき、「自分はそうは思わない。かくかくしかじかと思う」と言われたとする。「ああ、そうか、あなたはそう思うんですね。私と違いますね」と返す。 なんらかの結論を出さねばならない議論のように意見のすり合わせを行う必要がない場合は、これで済んでしまうはずなのだが、

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    hejihogu
    hejihogu 2007/10/04
    「コミュニケーションという意味では、これで済まない方が面白いので、こう簡単に済んでしまうほうがいい、という話でもない。」敵対しないと分かった後のお互いを探り合うやりとりは楽しい。
  • 異論とストレス - 深く考えないで捨てるように書く、また

    ネットに限らずの話ではあるが、ネットだとどうしてもよく見かけることになるので。 人間にとって、自分の意見と異なる意見を見聞きすることは、実はけっこうなストレスなんじゃないだろうか。直接自分に向けられた意見でなくて、どこかで全く無関係にふっと書かれていたりするのをたまたま読んだというだけでも。 自己承認云々とはまた別のからくりのような気がする。多様性の存在とはそうあるべきで、従って自分と異なる意見が世の中にはたくさんあって、中には真反対の、互いに完全に相容れない意見も存在する、ということは理解かつ承認している。 ただ、なにか、不安なのだ。均質なものだとなんとなく安心できて、雑多であるとそれだけでなんとなく不安になる、というような。怒りやむかつきまでもいかない、なんとなくざわざわと落ち着かないような、決して気持ちよくはない、妙な胸の感覚。 議論の有意義さ、異論の重要さは承知している。それに、す

    異論とストレス - 深く考えないで捨てるように書く、また
    hejihogu
    hejihogu 2007/09/06
    異論はあって当然でそれを見るのは苦にはならないけど、自分の論を周りに押し付けるのを見るのはストレスになる。
  • ゴリラブーツさんは日記なのではないの? - 深く考えないで捨てるように書く、また

    私は、ゴリラブーツさんはニュースサイトでもなく、もちろんスパムでもなく、日記なんだと思ってた。 挙がっている記事のリストを見ると、新しい見聞としての「ニュース」だけでなく、けっこう古い記事が関連でぽぽんと載っていることがわりとある。でも、どれとどれが関連と明記してあるわけでもなく、つらつらと同列に羅列されている。 これって、ある人が自分の興味であちこちのサイトや記事を読んで、あるテーマに興味が出たらそのテーマを検索して関連する記事を読んでみて、という思考をそのまま並べているんじゃないのかなあと思ってたんだな。 ゴリラブーツさんのタイトルには「ある視点からニュースを眺めています。」と書いてある。ニュースをピックアップしてるんじゃないんだ。でもって、ある視点とは、ゴリラブーツを書いているid:gorilla-bootsさん人ということ。 つまり、id:gorilla-bootsさんという人が

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    hejihogu
    hejihogu 2007/09/06
    淡々と読んだURLを記載する使い方と思ってるけど、なぜそれをはてブじゃなくてはてダでやるのだろう?
  • 「いいものだけを与える」ことは不可能だ - 深く考えないで捨てるように書く、また

    ちょっと前に、子どもに「いいものだけを与えたい」と願う親のことについて、いくつかの記事を読んだ。 こういうことについて私が思うのは、「いいものだけを与えたい」とどんなに思っても、子どもはそんな親の思うようには動かない、ということだ。すぐに、どこからでも、「よくないもの」を拾ってくる。 私が子どものころ、母から聞いた話。私は保育園に入るまでは、非常に言葉遣いがよかったそうだ。ですます調で話し、バカやらアホやらという系統の言葉も口にしなかったという。母自身がそういうタイプで、方言も貶め言葉もほとんど使わない人物だったので、そのまま覚えていたということらしい。一人目の子だったので、上の子の影響も受けなかった。 だから、保育園に入ったばかりの時は、先生にも驚かれるほど言葉が丁寧だったらしい。しかし、あっと言う間に、ごく普通に子どもが使うような、いわゆる汚い言葉をじゃんじゃん使うようになったそうだ。

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  • ネット知人は友人にならない - 深く考えないで捨てるように書く、また

    それなりにネット歴も長いので、ネットで知り合った知人はまあまあたくさんいる。中には15年以上のおつきあいになる人もいる。 しかし、その中で友人といえる間柄になった人は一人もいない。もうすこし正確に言うと、私から見て友人友達といえると思う人は一人もいない。 私にとって、迷いなく友人といえるのは、学生時代に知り合った人々のうちの何人かだけだ。今では遠方に行ってめったに会うこともなく、電話やネットを含めても言葉をかわすことも少ない人もいるが、しかし今でも友人だと感じている。 だからといって、ネットで知り合った人たちとの精神的距離が遠いかというと、そうでもない。ネットにいる限り、いろいろと話をする機会は多く、むしろ友人には話さないような腹を割った話をすることもある。罵倒コミュニケーションを気軽にとれるくらい親しく話しあう人もいる。 しかし、それでも、彼らを友人と呼ぶことにためらいがある。 このよ

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  • 人間を直接的に相手にする職業は、基本的に余裕がなければ問題が生ずる - 深く考えないで捨てるように書く、また

    休日午前、夫とタイトルみたいな話をぽそっとした。 まずぱっと思い出すのは、教育現場の崩壊や医療崩壊なんだが、それに限らず、接客業などでも同じ。すごく混雑しているレストランで、注文を間違えられたり、注文したのを忘れられて後の人のメニューが先に出てきたりする(出来上がりの順で前後するのではなく、最初から忘れられている)経験はときにある話で、そういう時フロアを観察していると、大抵、余裕がない。働いている人がいっぱいいっぱいで、単に忙しいというだけでなく、一つ間違えるとそのフォローでさらにかつかつになり、結果また次の間違いを起こす、なんていう悪循環に陥っている。こういう時に、一人でも少し余裕をもって全体を眺められる人がいると、段違いにミスが減る。レストランの場合は通常フロアマネージャーなどがその役をするが、完全に余裕がないと、フロアマネージャーまで給仕に駆り出されていて、他を見ていられないから、こ

    人間を直接的に相手にする職業は、基本的に余裕がなければ問題が生ずる - 深く考えないで捨てるように書く、また
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