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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/m-abo (13)

  • 『サマーウォーズ』感想。 - さかさまつげ

    『サマーウォーズ』を発表したばかりの細田守監督が、スタジオジブリで『ハウルの動く城』を撮り損ねたことは、わりと知られた話だろう。 最終的に宮崎駿が作り上げる『ハウル』を、「家」を逃れた老女が自ら「家」をでっちあげるまでの冒険物語…と乱暴に要約してみる。『サマーウォーズ』は、その『ハウル』を作ることのなかった演出家の新作、というふうに受け取ることもできる。 そしてこの映画を、家族の結びつきの中心にいる老女が、一家の使命を強調しつつ世を去る物語、とこれまた乱暴に要約してみる。と、どこか、後退戦の気配が漂い出さないだろうか…「おばあちゃん」の映画として。 「女系家族なんだよ」と作中人物に言わせてはいるけれど、『サマーウォーズ』で戦いを率先して担うのはもっぱら男たちだ。戦う女性は、戦う男たちを鼓舞するシンボルとして恭しく奉られるばかり(なぎなたを振り回すビッグマザーと、吉祥天女化するヒロインと*1

  • 綾波レイが「母」をやめる時。…『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』第2印象。 - さかさまつげ

    シンジがレイに、今の綾波を選ぶ!的な殺し文句をぶつける場面は、確かにグッとくる瞬間ではありました。ただ、それがグッとくるのは、レイがシンジの母親の(2人目の)クローンだということを、今まで『エヴァ』を見てきた僕(たち)が、もう知ってしまっているからです。1人目の代わりとして作られ、いずれは3人目がこの自分に取って代わることをあらかじめ知っている少女の耳に届く、今のきみを肯定する、というメッセージは、無限に作られる「綾波レイ」の中のたまたま何番目かのレイ、にではなく、この私、にだけ向けられた言葉として響いたはずです。彼女の境遇を知る僕(たち)も、その同じ響きを聞き取ることができるし、それ故に感動する。  ところがその言葉を口にした人は、少女のそんな事情なぞ、物語のこの時点ではまだ知りえない。だから、クライマックスでのシンジとレイのやりとりは、来、美しくも痛ましいすれ違いをはらんでいる…は

  • 綾波レイはパイン・サラダを作るか? …『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』第1印象。 - さかさまつげ

    『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を近所のシネコンのレイトショーで観て、家に帰ると11時過ぎ。相方と子供はもう布団に入っておりました。いつもだったらそのまま風呂に入って寝てしまうところだけど、冷蔵庫の氷温室に入ったまま消費期限の切れた豚ホホ肉のかたまりが気になっていたもので、明日の朝メシの仕込みをすることに。リンゴとショウガをすりおろして醤油と酒とまぜてタレを作り、半分凍っている肉を5ミリ厚くらいに切り分けてタレに漬け、冷蔵庫に戻しておく。それだけの作業に20分近くかかってしまうのは、やっぱり不器用というか手際が悪いというか。自炊歴の長いわりに進歩がなさすぎだろ>自分。 …などと思いながら、観てきたばかりの『ヱヴァ破』のことも考えました。ミサトとの同居生活で料理当番を重ねるうちに、いっぱしの腕自慢になっているシンジに感化?されて、レイもアスカもおっかなびっくり料理をつくろうとする、新劇場版の

  • 男子、自分のからだにさわるべし。あるいは、亜美ちゃんはなぜ失禁するのか。 - さかさまつげ

    「自分の性器を鏡で見たことがありますか?」という問いかけは、女の子に、性的抑圧を気づかせるきっかけとして、わりと定番(たぶん)。 この問いかけを、男子のほうに引っくり返すとしたら、「自分の肛門を鏡で見たことがありますか?」になりそう(えー)。 男のからだの中では、男性性を帯びさせられていない部位は、関心の外に置かれがち。関心を持つな、という抑圧がある……とまで言っていいかは、わからないけど。その「関心の埒外」の最たるものとして、とりあえず「肛門」! 童貞の人とかは、「女の子にどうさわっていいかわからない」的なことを言うことになっているらしいけれど、果たしてそんな彼は、自分のからだにだって日頃さわっているのか、どうか。 他人の身体感覚なんて、自分のそれをベースに想像するしかないと思う。感度、というのは(あまり、いい言葉じゃないけど…)個人差や性差に左右されがちかも知れないけど、大ざっぱな性感

  • 見ること、見えること……『ハウルの動く城』から『崖の上のポニョ』へ。 - さかさまつげ

    宮崎駿が、いつのまにか「魔法」を物語の中心に置くようになっていた。 89年『魔女の宅急便』で魔法使いを主人公にして以来、92年『紅の豚』、97年『もののけ姫』、01年『千と千尋の神隠し』、04年『ハウルの動く城』、そして08年『崖の上のポニョ』、と並べてみると、『カリオストロの城』や『天空の城ラピュタ』当時の、宮崎アニメ=「漫画映画」という形容は、『もののけ姫』をいくぶん保留するにしても、今や「魔法映画」と言い直したほうがいいくらいに見える。 そしてその「魔法」によって、宮崎駿は、変身する主人公を繰り返し描くようになる。変身の理由をいっさい明かさない『紅の豚』のポルコもふくめ、名前を奪われることで元々の自分を忘れてしまいそうになる千尋にしろ(ここでの変身とは、じつに「忘れること」である!)、老女に変身させられてしまうソフィにしろ、変身によっていろいろと(客観的には)不都合な事態に直面するだ

  • リサの運転が乱暴なのにはわけがある。 - さかさまつげ

    …と思うんですわ、『崖の上のポニョ』を4回見た人間としましては。 さすがに大ヒット中の映画はというか宮崎アニメはというか、いろんな感想が読めておもしろい。中でも、はああ…と思ったのが「リサの運転が乱暴すぎて人格を疑う、感情移入できない」的な感想。や、自分はほぼ気にならなくて、唯一、大波の寄せてくるドック*1を渡っちゃうところが、ちょっと無理してるかな、と感じたくらい。あとは、このかあちゃんは走り屋かよ!?と単純に盛り上がってました。「法律違反のオンパレード」「人としての見識を疑いたくなります」といった真面目な感想を読んじゃった日には、オレの見識も疑った方が良いのかもなあ…とか。「子を持つ親」として。でもチャイルドシートはちゃんと用意してたよね…。 ただ、あの乱暴な運転ぶり、キャラクターとしての首尾一貫性とは別の水準で、演出上、必要だったんじゃないかとは思うんですよ。以前書いた『ナウシカ』の

  • ところでじつは、宮崎アニメが「成長譚」に見えたためしがありません。 - さかさまつげ

    ポニョ見たけど、師匠も男友達もいない宗介と、オタク的に都合の良い「聖なる女性賛美」が強すぎて駄目でしたポニョみて「これでいーのか」と思ってうっかり真似しちゃうような迂闊な駆け出しの人には、たいへん有効な良薬的エントリ。 ただし、いちいちごもっとも、ではあるものの、このツッコミが全部クリアされてる脚だからといって、おもしろい、がどうかは別のような気が。せいぜい「納得」のレベルなのでは。じつは自分、観る前の予断として、乙木さんの書かれてる、海の中からポニョが崖の上で光る宗介の家に憧れていたってのを、彼女の家出の動機にするていうのがたぶん出てくるんだろうな、段取りにしてもうざいな、と思ってたらそゆこと一切無視し尽くしてたんで、心ん中でガッツポーズ決めてました!www にしても(ブクマでも突っ込まれていたけど)、異性婚という禁断の恋愛が、乗り越えるべき試練に満ちた冒険になりえていないっていうのは

    helpline
    helpline 2008/08/04
    そもそも「女性への恋愛感情が男同士の友情に勝ることで成長する」などという話は、成人男性の話でもまずないですよね。あまり描かれないけれど、宮崎アニメでも男同士の絆は尊重されているはず。ルパンと銭形然り。
  • 『崖の上のポニョ』は『ナウシカ』の遥かな続編かも。だからどうした。 - さかさまつげ

    めいっぱい乱暴にまとめると、5歳児どうしをめあわせる話、になっちゃうわけで、『人魚姫』がストーリーの下敷きになっているとはいえそれってどうなのよ、と、義母にあたる女神さまから「ポニョは半分人間、半分魚。それでもいいのですね?」とまるで結婚式の誓いのように問われて「うん」と答える宗介くん5さい、の屈託のなさに、不憫さと同時に微かな違和感も感じずにはいられなかったのですが、「魚」の姿に戻ったポニョを人間にするには、案の定!チュウがお約束と言っても、思い返せば、ポニョがチュウを振る舞っていたのはもっぱら小さな小さないもうとたち相手だったわけなのだし、「5歳児どうしをめあわせる」なんてのは目腐れした大人の考え方でしかないにちがいない、とこちらが考え直すスキもあらばこそ、スクリーンでは水滴?にくるまれた「魚」のポニョがさっさと自分から宗介くんの唇を奪ってしまっていました。 飛翔感覚をしきりにホメたた

  • 『モンスターズ・インク』はどこまで「ピクサーヴォルト」か? - さかさまつげ

    子ども向け劇場アニメが描く「マルチチュード的革命」/ジュディス・ハルバースタム講演報告『レミーのおいしいレストラン』の場合/「ゲイな映画」と「クィアな映画」のあいだ ピクサーをはじめとする最近の3DCGアニメに、「クィアな主体」による革命(「ピクサーヴォルト」)が書き込まれている、というジュディス・ハルバースタム氏の説を、macskaさんが紹介されていて、最近になってピクサー映画の面白さに目覚めた者として、興味深く読みました(なお、2つ目のエントリは、macskaさんが『レミーのおいしいレストラン』を「優れてゲイ的な映画」と結論づける内容)。ピクサーの主人公たちの目立たないユニークさが、いろいろと腑に落ちた感じがあります。[14日追記]以下、ハルバースタム氏の発言として引用している言葉は、macskaさんがハルバースタム氏の講演内容から再構成したものであり、現在は、引用については遠慮してほ

  • 『カーズ』はホントはこんな映画です。 - さかさまつげ

    すっかり遅くなってしまいましたが、「macska dot org」のエントリ「子ども向け劇場アニメが描く「マルチチュード的革命」/ジュディス・ハルバースタム講演報告」と『レミーのおいしいレストラン』の場合/「ゲイな映画」と「クィアな映画」のあいだの感想、続きです。 前回のエントリで、ハルバースタム氏の示す3DCGアニメ作品の読み方はストーリー偏重ではないだろうか、と書きました。その印象に変わりはないのですが、子供に伝わるかどうか、を基準にするなら、提示される読みがそうなる…ならざるをえない、のは、納得できます。「クィアな主体による革命」を肯定するメッセージが子供にも受け止められるように、このようなストーリーにアレンジされている、という指摘としてまず読むべきなんだろうな、と思うのです(さもなければ、ヒロイズムに拠らない「マルチチュード」の共闘というテーマ自体は、何も「ピクサーヴォルト」に限っ

  • 「BLスタディーズ」メモ。消したり足したりしまくる予定。 - さかさまつげ

    孫引用。やおい論の中には、やおいを性からの逃避、あるいは女性嫌悪と見なすものがあった。しかし厳密にみれば、やおいにおいて回避されているのは、性や女らしさではなく、女性を性的対象としてみる(性的対象としてしかみない)まなざしではないだろうか。藤由香里「少年愛/やおい・BL」における、金田淳子「やおい同人誌 解釈共同体のポリティクス」引用、の再引用。確認=女性嫌悪に然るべき実体はない(それは神話のようなもんである)。「まなざし」が、あたかも嫌悪すべき何かがあるように女性をまなざす、のにすぎない。女性性を嫌悪するようなまなざしを内面化した者にとってだけ、女性嫌悪は実体をもってあらわれる。逆に言えば、女性嫌悪(性的存在としてのみ存在を許されている「女性」)の正体を「まなざし」だと見破れる者は、すでにまなざしの内面化から逃れ得ている。「女性嫌悪」である/ない、は、「まなざし」の内面化の濃淡の違いの

  • 「男女の友情は可能か?」という問いに、「それはやおいだ」と答えてみる。:さかさまつげ

    「やおい」をごく大雑把に、「ホモソーシャリティのホモセクシャルへの読み替え」と定義してみる。 ホモソーシャリティはホモセクシャリティを排除することで成り立つから、やおいはホモソーシャルな集団にとって、排除した当のものを突きつけてくる存在、ということになる。やおいに必ずしもその意図があるとは言えないにしろ、やおいには、ホモソーシャル集団の排除したホモセクシャリティを顕在化させる(しかも、多くの場合は戯画化して…)一面も、確かに備わっている。やおいは、ホモソーシャル集団に属する男たちが触れずにいるものを、含み笑いと羨望のまなざしとともに指してみせる。 「メロディ」4月号のよしながふみ&羽海野チカ対談がおもしろい。見た目仲良くないんだけど、お互いの力を認め合ってて、それでその人が当に困った時には手を貸してやる関係みたいなものを、やおいだと私らは呼んでいて、 と、よしながふみが言っているのを読ん

  • 腐女子が腐女子に萌えたなら…溝口彰子「妄想力のポテンシャル」を読む。 - さかさまつげ

    むかし漠然と考えていたのは、耽美というかやおいというかBL、の読者が、いずれ女の子どうしものに関心を持つということもあるんじゃないかな、ということでした(ただし、「百合」とはちょっと違う雰囲気のものを想定していた)。男同士の関係性が当たり前になっちゃったら、つぎは男ではない性に関心が向く、ということは素朴にありそうだし、また、やおいを求める一部の人の心理の根っこに、女の子の内なる女性嫌悪がある、というのが当なら、多少なりともその女性嫌悪が緩和された時、女の子どうしのフィクションを通じて、あらためて自分自身の性を見つめようとすること、もありそうに思ったのです。 そして何より、男である僕の目には、やおいに関わる女の子たちの仲のよさが尋常ではないものに見えたのでした。「友情というより愛だろ」というのは、彼女たちの関係のほうがよっぽど似つかわしい……などとは、当時言いませんでしたが、ちょっと思っ

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