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ブックマーク / blog.livedoor.jp/easter1916 (54)

  • ララビアータ:キルケゴールのフモール - livedoor Blog(ブログ)

    私は笑いと泣きとの共通性をもとに、泣きにおける緊張が一挙に解かれるときに笑いが生じる、と論じたことがある(「笑いについて」『魂の美と幸い』所収)。この緊張がどこに生じるかといえば、それは悟性においてということになろう。笑いが人間特有であるとすれば、その理由は悟性に基づく緊張が人間にのみ見られるからであろう。言語使用に特有な規範性は、人間に大きな緊張を強いるものであるに違いない。この不自然さこそが、その解放とともに爆発的な笑いを生み出すのである。人間以外の肉動物も、獲物を追跡するときに緊張を強いられることもあろうし、狩りが終われば緊張から解放されもしようが、そのような緊張からは笑いは生じない。ハイエナが笑いに似た声を発するという説もあるが(カネッテティ『群衆と権力』邦訳 上p−328)、それを笑いと見ることはできない。他の動物における緊張と弛緩は連続しているため、笑いのような痙攣発作的な呼

    hharunaga
    hharunaga 2024/09/01
    “フモールは「独我論者の社交性」といったものに近づく。ソクラテスのイロニーと違って、フモリストの自己吟味は常に内面で行われ、〔…〕それが、キリスト教特有の非政治性につながるのである。”(田島正樹)
  • ララビアータ:都知事選挙の選択 - livedoor Blog(ブログ)

    東京都知事選に対する考えを表明しておく。地方首長の選挙に当たっては、広範な問題がかかわっているから、どこに焦点を絞るかが難しい。したがって政策論争が効果的に行われにくく、いきおい印象操作の泥仕合に流れやすい。そこで、デンツーなどの扇動や売込みのプロが幅を利かすことにもなるのだ。我々市民は、ナチスまがいの宣伝工作に惑わされずに判断力を研ぎ澄まさなければならない。 人によって重視するポイントは様々であろうが、私が重視するのは一言で言えば公開性――つまり、嘘がなく、包み隠すことなく情報を公開する姿勢である。それがなければ、どんな政策を口走ろうとも、結局ゲッベルス流の情報操作の餌となり、公約も画に帰するしかない。 近年、議会答弁で質問をはぐらかしたり、記者会見でお気に入りの記者だけを指名したり、不都合な質問に対して「次の質問どうぞ」と繰り返したりする傲慢な政治姿勢がしばしば見受けられるが、それ

    hharunaga
    hharunaga 2024/06/25
    「私が重視するのは一言で言えば公開性――つまり、嘘がなく、包み隠すことなく情報を公開する姿勢である。それがなければ、どんな政策を口走ろうとも…情報操作の餌食となり、公約も画餅に帰する…」(田島正樹)
  • ララビアータ:左翼の保守主義的バックボーン - livedoor Blog(ブログ)

    拙著『読む哲学事典』における「保守主義と左翼」の小文に、コメントをいただいたのをきっかけに気づいたことがあったので、それをここに書き留めておきたい。 私は左翼も愛国的コミットメントを持つ必要を主張してきた。ここでいうコミットメントの対象は必ずしも国家ではなく、むしろ伝統である。たとえばロストロポーヴィッチの言葉を引いて伝統について考察した項では、チャイコフスキーの演奏についての「ロシア的伝統」が、上辺ばかりの効果を狙うものでしかないと批判し、真の伝統に立ち返らねばならないとする考えを紹介している(「歴史と伝統」の項参照)。この伝統は、ロストロポーヴィッチの音楽を培ったものであり、その音楽の表現とその文法を彼に教えたものである。自分自身の音楽的実存の根幹を育て上げた母胎であればこそ、その歪曲を許しがたいと感じるのである。ここに深いコミットメントが生まれる。他の芸術や哲学でも宗教でも、かかるコ

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    hharunaga 2024/03/26
    「〔アメリカ革命に対する〕フランス革命の重大欠陥は、…ルソー主義にあったと言わざるを得ない…。…ルソーの国家は対立を含み得ぬものになってしまったのである。つまり右翼的なものになってしまった」(田島正樹
  • ララビアータ:アレントとマルクス主義 - livedoor Blog(ブログ)

    カルチャーセンターの講義で「アレントとマルクス主義」を扱ったので、そのメモワールをここに挙げておこう。 宇野弘藏の恐慌論 宇野の恐慌論から始めよう。それは、一種の景気循環論であり、シュンペーターの議論に近いものを持っている。かつて我が国の戦後経済学はほぼマルクス経済学派によって占められていた。特に東大経済学部は、労農派マルクス主義者の牙城であった。宇野弘藏は労農派から出てマルクス研究を精緻化し、ある程度学問的議論に耐えるものに仕上げた。宇野経済学に学んだ経済エリートたちが、経済諸官庁を席巻していた50年から60年代初期にかけて、果たして彼らの教養がどれほど役に立ったか疑問に思う向きもあるかもしれないが、意外にもそれが通用したのである。それは宇野弘藏の学問理念によるところが大きい。彼はマルクスの『資論』の所説を、イデオロギー的価値観から峻別し、ブルジョワ社会の原理的な分析に純化した。科学的

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    hharunaga 2024/02/20
    “〔アレント『革命について』での〕ポリス的〔「自由」のための政治的問題〕←→オイコス的〔「必要」のための社会・経済的問題〕の対立は、固定的なものではなくそれ自体が政治闘争の主題なのである”(田島正樹)
  • ララビアータ:To the happy few - livedoor Blog(ブログ)

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    hharunaga 2024/02/11
    田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書)の増補改訂版が、講談社学術文庫から再版されることになり、その「自薦の文章」だという。「いずれ、同社のホームページに載るはずのものである」
  • ララビアータ:美学覚書 - livedoor Blog(ブログ)

    美学のアンチノミー およそ「美学」という分野がはっきりとした形を取るのは、近世18世紀のころだとされている。近代の「美学」とそれ以前のあいだには、大きな亀裂があると考えるのが妥当である。アリストテレスの『詩学』は悲劇について論じたものであり、芸術一般を論じたものではない。そもそもギリシアにおいては、詩人の仕事と彫刻家の仕事が共通する芸術という領域の分枝であるという意識は全くなかった。後者は、肉体労働であるから一段卑しいものと観念されていたのである。ブルクハルトは、彫刻の分野が盛期ギリシアの末期になっても、依然としてその輝きを失わなかった理由として、それが精神にとって重要なものとは見なされていなかったことが幸いしたのであろうと考えるほどだ。(それに対して悲劇の方は、アテナイのポリスの政治と精神に深く依拠するものであったため、ポリスの衰退とともに悲劇の精神もまた衰退せざるを得ず、プロポネス戦争

  • ララビアータ:パレスティナの惨劇 - livedoor Blog(ブログ)

    今般パレスティナで繰り広げられている無残な虐殺と、今後起こりうる一層巨大な惨劇に、胸のつぶれる思いをしているのは私ばかりではあるまい。もちろん、このような大事件について、その背景を含む詳細を今の段階で知り得ることはごく限定されているということは当然のこととして、だからと言ってすべてに判断を留保するようなことは、国際社会の一市民という立場からさえ無責任であろう。自分が判断を誤る可能性は十分認めたうえで、言いうることは断固言わねばならないのだ。 取りあえず断言せねばならないのは、ハマスによる重大な戦争犯罪があったからと言って、イスラエルによる大量無差別殺戮が許されるわけではないということだ。たとえイスラエルによる「自衛のための軍事行動」が許されるとしても、それらは戦時国際法の制約のもとに行われなければならないのは自明のこと。我々は、この件について語る「情報通」の話につられるあまり、国際法の規範

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    hharunaga 2023/10/24
    「我が国は、イスラエルが復讐を自制することを要請すべきであり、それができなければせめて一定時間延期するよう要請すべきであろう。わずか一日でも延期できれば、それによって助けられる命がある」(田島正樹)
  • ララビアータ:ベンヤミンの政治哲学 - livedoor Blog(ブログ)

    ベンヤミンは、政治について多くは語っていない。その主たる関心は、芸術批評と美学に向けられていた。私は拙著『文学部という冒険』で現代芸術の政治性を強調し、ベンヤミンの美学にも言及したので、その政治哲学的含意について論じておきたい。 もともとドイツ社民に対して深い軽蔑を抱いていたベンヤミンは、俗流マルクス主義に対しても何の共感も持たなかった。アーシャ・ラティスを通じて伝えられたロシア革命には大きな期待を寄せたが、それも公式のマルクス主義理論とかボルシェヴィキの組織に対してではなく、そこに示された新しいエトスやモラール(士気)に対してであったろうと思われる。 結論から言えば、私はマルクス主義をベンヤミンによって刷新することを期待する多くの理論家と違って、むしろマルクス主義から、とりわけマルクス主義の唯物論や自然主義から切り離すことによって、ベンヤミンの政治哲学の革命的意義を生かし得ると考えている

    hharunaga
    hharunaga 2022/07/06
    「私はマルクス主義をベンヤミンによって刷新することを期待する多くの理論家と違って、むしろマルクス主義から、…切り離すことによって、ベンヤミンの政治哲学の革命的意義を生かし得ると考えている」(田島正樹)
  • ララビアータ:カフカ『変身』 - livedoor Blog(ブログ)

    「ザムザ嬢がまっさきに立ち上がって、若々しい手足をぐっと伸ばした。その様は、ザムザ夫の目に、彼らの新しい夢と善き意図の確証のように映った」(カフカ『変身』) これは『変身』の末尾である。冒頭、一家の長男グレゴリー・ザムザがある日大きな甲虫に変身している――この箇所で誰しもギョッとしてしまうに違いない。読み進むうちに、我々がこのことに驚きや嫌悪を感じるほどには、ザムザ家の誰もさほどに驚いていないことに気づいて、なおのこと驚く。しかしやがて、グレゴリーはひっそりと死んでしまって、一家は元の生活を取り戻す。病人の看病をするように兄の世話を引き受けてきたザムザ嬢は、末尾でぴちぴちした妙齢の女に成長しているのだ。この小説当の恐ろしさは、主人公が奇怪な虫に変身する所よりも、彼の死後、他の者がせいせいしたとばかりに普通の明るい日常に復帰していく所にある。 家族の一員が突然何かの不適応を起こし「一家

    hharunaga
    hharunaga 2022/05/17
    「この小説の本当の恐ろしさは、主人公が奇怪な虫に変身する所よりも、彼の死後、他の者がせいせいしたとばかりに普通の明るい日常に復帰していく所にある」(田島正樹)
  • ララビアータ:ラカンとフェミニスム - livedoor Blog(ブログ)

    ラカンによれば、男児は母の欲望の秘密を、ファルスの欠如ゆえに父のファルスを求める欲望と解釈する。これは、すべてのシニフィアンをファルスの欠如から解釈する一元的意味論である。男児が、原理的一元的説明原理が与えられると期待するのは、もちろん早とちりの幻想による。あまりにも鮮やかな解釈が得られたと思い込むことから、彼らは意味一般の解釈原理を手にできたと思うのである。これがそれ以後の彼らの意味論の基形を形成するのだ。 しかしそれなら、男は皆そのような愚かさを宿命づけられているのか? そうではない。そもそも鏡像段階のデッドロックを突破できたのは、男女を問わず母の欠如(母の欲望)から、言語への道が開いていたからである。 男児は、それを大文字の他者A への母の欲望と見なし、自らもAを求める。そして、Aの中に己れのセリフを見出す。しかし、このAが完全でもすべてでもないことを見出さなくてはならない。さもな

  • ララビアータ:『文学部という冒険――文脈の自由を求めて』(NTT出版) - livedoor Blog(ブログ)

    拙著『文学部という冒険』(NTT出版)が上梓される運びとなった。じきに店頭に並ぶはずだ。 https://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%83%A8%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%86%92%E9%99%BA-%E6%96%87%E8%84%88%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6-%E4%BA%BA%E6%96%87%E7%9F%A5%E3%81%AE%E5%BE%A9%E8%88%88-%E7%94%B0%E5%B3%B6%E6%AD%A3%E6%A8%B9/dp/4757143591 2017年サントリー堂島サロンに招かれた時の講演がもとになっている。 https://www.suntory.co.jp/sfnd/web

  • ララビアータ:スピノザ解説 - livedoor Blog(ブログ)

    最近、仕事でスピノザについて少々語る機会があった。それで、以前書いたことをごくかいつまんでまとめてみた。別に真新しいものではない。ただ、スピノザに興味はあるがとっつきにくくて困っているという人のために、以下掲載しておく。 スピノザはどうしてあのように激しい指弾にあったのか? 彼が生前に出版したのは、ほぼ『神学・政治論』だけである。この一書だけで、すでにスピノザは世界中の憎しみの的になっていた。それは、彼が異端的な倫理やエキセントリックな主張をしたからではない。それどころか、彼は聖書のすべての主張が、我々の常識的道徳と少しも違わないことを説いており、その点でその解釈は凡庸とさえいえるほどだ。それがどうして世界中の怨嗟を招いたのか?この点を理解しないスピノザ解釈は、まったく的を外しているのだ。 神の言葉が、もし我々から見て非道徳的なことばかりを含んでいたとしたら、殺人や窃盗や偽証、強姦などを善

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    hharunaga 2021/01/02
    「力を拡大するような行為と、それを削減する行為…とがある…。前者が倫理的に善なるものであり、後者が悪と呼ばれるものである。…スピノザにおいて実在性と合理性と力能とはほぼ同義と見なされる」(田島正樹)
  • ララビアータ:大童澄瞳『映像研には手を出すな』 - livedoor Blog(ブログ)

    以前カズオ・イシグロの作品批評をしたことがある(2018年11月2日「カズオ・イシグロ『私を離さないで』」)。その補足として、対蹠的な作品を取り上げたい。それが『映像研には手を出すな』である。以下、ネタバレあり。 カズオ・イシグロの『私を見捨てないで』においては、芸術作品の自律的で中立的な価値が前提とされ、その結果、芸術の政治的批評性が隠蔽され、かくて作品がいたって人畜無害な文化財に成り下がるという結果になる。それに対し、現代芸術の政治的批評性を前面に打ち出し、作品の自律的価値にさえ大胆に疑いの目を向けた作品として、大童澄瞳原作の現代のアニメーション作品『映像研には手を出すな』を例にとりたい。 まず、主人公の三人である。独創的な構想力に恵まれているが人間関係を取り結ぶのが苦手な小心者である浅草みどり。勝手な趣味に走る他の連中を束ねて、マネージメントと会計を取り仕切る金森さやか。カリスマ・読

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    hharunaga 2020/08/02
    「カズオ・イシグロの『私を見捨てないで』…は、芸術作品の自律的で中立的な価値が前提…。それに対し、現代芸術の政治的批評性を前面に打ち出し、作品の自律的価値にさえ大胆に疑いの目を向けた作品」(田島正樹)
  • ララビアータ:『ハムレット』について

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    hharunaga 2018/10/25
    “文芸作品の持つ「真実を表現するための虚構への迂回」ということの不可避性が鮮やかに示されていること、その意味で『ハムレット』こそ、劇の本質を示した劇作品である”(田島正樹)
  • ララビアータ:勝海舟(山形新聞 ことばの杜) - livedoor Blog(ブログ)

    「誰を味方にしようなどというから間違うのだ、みんな敵がいい。」(勝海舟『海舟座談』) かつて職場で労働組合をつくったことがある。きょうび組合と言っても、親睦を深め、労使協調を図るものばかりだが、私のは闘う組合だ。私たちの要求は、「表現の自由」とか「性差別撤廃」とか慎ましいものばかりであったが、そんな最小限の人権のためにさえ、どれほど徹底的に闘わねばならないか痛感させられたものだ。職場の大ボス・小ボスとことごとく対決したので、危惧を感じた同僚は次第に遠ざかり、やがて私は完全に孤立した。 だが、みんな敵になってみると、それが存外心地よいことに気づく。とことん嫌われているので、愚劣な懇親会に出る必要も、スモール・トークに付き合う義理もない。もはやそれ以上嫌われることがないので、自分を曲げて人に合わせることはない。いかなる忖度も気兼ねも一切不要。よどんだ空気を読むこともさらにない。思えば、人に嫌わ

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    hharunaga 2018/09/25
    “「誰を味方にしようなどというから間違うのだ、みんな敵がいい。」(勝海舟『海舟座談』)……周りがみな敵である状態は、…爽快な孤独と自由をもたらし、幸福とは言わないまでも、少なくとも矜持を与える”
  • ララビアータ:山形新聞ことばの杜(大森荘蔵先生) - livedoor Blog(ブログ)

    ことばの杜(山形新聞)への投稿 私たち〔ホワイト夫〕を名前で呼ぶように、またその逆も許してくれるようにという申し出を、彼〔大森荘蔵〕は断固拒んだ…多くの他の日人はこの問題に関しては柔軟になっていたが、大森は違っていた。私たちは彼のことを、一皮むけば一種のサムライであると考えるようになった。(ホワイト『日人への旅』) 著者モートン・ホワイトは、戦後日米アカデミズムの懸け橋として活躍したプリンストンの哲学者である。書は、戦後間もない頃から三十年ほどにわたる交流の思い出を記したものだ。その中に、何人か私自身面識のある先生方が出てくるが、とりわけ印象的なのが大森荘蔵先生の姿。先生は、ファーストネームで呼び合おうというホワイトの申し出を断固として退け、最後まで敬称を外そうとはなさらなかった。これは、他の日人にはないところで、ホワイトに特に印象深く映ったのであろう。そこに、誇り高いサムライの

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    hharunaga 2018/07/17
    “先生は、我々とるに足らぬ学生に対しても、「あなたの仰ることは無意味なたわごとです」といったふうに常に敬語でお話しになり、御自身にも我々にも、決して馴れ馴れしさを許そうとはなさらなかった”(田島正樹)
  • ララビアータ:正岡子規の歌論 - livedoor Blog(ブログ)

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    hharunaga 2018/03/14
    「子規の貢献は、有名な写生の理論などではなく、何より文学に批評を導入したことである。…(しかし)子規のピューリタン的近代主義は、戯れと本気、真実と虚構の峻別に重きを置き過ぎて」いる(田島正樹)。
  • ララビアータ:権威 - livedoor Blog(ブログ)

    山形新聞「ことばの杜」への投稿 「権威の喪失は世界の土台の喪失にも等しい」(アレント『過去と未来の間』) アレントは、ナチズムの下であらゆる権威に反逆するゴロツキたちの怨恨感情(ルサンチマン)の暴走が、自由の根絶に導くことをつぶさに目撃した政治哲学者である。権威は理由を超えたものであるから、かかる「奴隷の反乱」(ニーチェ)「大衆の反逆」(オルテガ)に直面すると、それに対抗することは難しい。 近代は、宗教をはじめとする権威を揺るがし、懐疑に基づく理性の自律を尊重したが、その行き着く果てに、社会のあらゆる部分が液状化し、どこにも確かなよりどころがなくなってしまう。「識者の権威」を疑うのはいいが、そのあげく最も子供じみた迷信や風説の類にさえ、やすやすと騙されてしまう(「スタップ細胞」とか「空中浮遊」のたぐい!)。 例えば教育では、権威が果たすべき役割と責任はあまりにも自明であったので、生徒やその

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    hharunaga 2017/12/31
    “「権威の喪失は世界の土台の喪失にも等しい」(アレント『過去と未来の間』)。〔…〕権威の存在は、自由に敵対的と見なされがちであるが、むしろ自由の基礎なのである”(田島正樹)
  • ララビアータ:サロンの批評と政治

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    hharunaga 2017/12/24
    「政治闘争には、ファッションに似た側面と、芸術作品に似た側面の両方がある。…革命的偉業には…永遠の新しさが付きまとう。…ソロンの改革とかパリ・コンミューンは、政治の古典として永遠なのである」
  • ララビアータ:飯田隆氏の『新哲学対話』 - livedoor Blog(ブログ)

    飯田隆氏から新著『新哲学対話』(筑摩書房)をいただいた。初めの対話編「アガトン」を一読して深く感銘を受けたので、それについて論じてみたい。 飯田氏は、我が国の分析哲学を旗艦として牽引してきた格的哲学者であり、亡き大森荘蔵先生の高弟である。その著作は、常に周到かつ精妙であり、一般より専門家の中で評判の高い玄人好みのものと言ってよい。しかし今般氏が出版した書は、質の高さは従来のものと変わらないが、その語り口の平明さや入門的親切心もさることながら、ひときわ遊び心にあふれた滋味豊かな作品に仕上がっている。氏を身近で知る人になら、こういう遊び心が氏の持ち味の一つであることはよく知られているが、書ではそれが大きな魅力となっている。 有名なプラトンの対話編『饗宴』を下敷きに、その後日談を対話でつづるという形式は、単にプラトンの模倣にはとどまらない文学的出来栄えを見せて瞠目させる。特に、プラトンでは

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    hharunaga 2017/11/18
    「古典的作品は…、現代的論争の中心であり続けることで、常に現代的であり続ける。ここには、一旦新しかったものは、永遠に新しい(いかなる文脈においても新しい)という逆説がある」(田島正樹)