石川県生まれ、富山県育ち。貧しい環境で苦労して育つ[1]。大学時代は若泉敬主宰の研究会に参加し、研鑽を積む。学者を目指して大学院に進学するものの、指導教官の急死などで断念し、外交官となる[2]。 外務事務次官としては異例の3年(在任 2005年(平成17年)1月4日 - 2008年(平成20年)1月17日)を務め[3]、安倍内閣の外務大臣・麻生太郎の提唱した外交方針(価値観外交)の策定・実行に中心的役割を果たした。退官後は早稲田大学、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス等で教鞭を執り、前記大学合同の授業は谷内塾と呼ばれた。なお、東大(駒場)からは専任講師をオファーされたが教授職を希望して断った。2012年(平成24年)に発足した第2次安倍内閣では内閣官房参与に就任した。 外務省における田中眞紀子と鈴木宗男の争いにおいては、田中眞紀子に忠実に仕えた。鈴木宗男に対しては「私は鈴木さんには詫びない。鈴