織田信長が明智光秀に討たれた1582年(天正10年)の本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉が家臣に宛てた書状が愛媛県内の個人宅で発見された。 変後に横行した京都市中での略奪に対し、信長ゆかりの品物に限っては持ち主に返すよう命じた内容だ。亡き主君・信長を変後も秀吉が尊重していたことを示す史料として注目される。 東京大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授が25日に現地で調査し、筆跡や内容から新発見の書状と判断した。天正10年8月14日付で、秀吉が堀尾毛介(もすけ)(吉晴)ら3人の家臣に宛て、文末に「筑前守 秀吉」の名と花押がある。 戦国時代、略奪を避けるため武士や公家が寺社に財産を預ける「預物(あずけもの)」の慣行があったが、変後は明智勢による預物の略奪が頻発。明智勢を破って入京した秀吉は、それらの略奪物の持ち主を確認するよう家臣に命じたが、秀吉の家臣までもが預物の略奪を始めた。 書状では、家