根岸 鎮衛(ねぎし しずもり / やすもり)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。勘定奉行、南町奉行を歴任した。 生涯[編集] 150俵取りの下級旗本の安生太左衛門定洪の3男として生まれた。江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが、宝暦8年(1758年)、同じく150俵取りの下級旗本根岸家の当主根岸衛規が30歳で実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として、22歳の鎮衛に根岸家の家督を継がせた(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であるため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある)。父も相州若柳村の浪人鈴木藤兵衛相秀の二男で、旗本安生家の御家人株を買収し家督を継いでいた。 鎮衛は、根岸家の家督相続と同時に