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写真と思想に関するhonehonerockのブックマーク (6)

  • 石倉優の仕事 - YU-ISHIKURA.COM

    Domain for History This domain name was built between 2020-09-18 and 2021-07-28 for a period of 2 year. The website title is [ 石倉優の仕事 Yu Ishikura's works ].This domain name was built between 2021-12-07 and 2022-05-26 for a period of 2 year. The website title is [ 石倉優の仕事 ].

  • 誰も話したことのないことば – Skenographia

    言語論からはじめよう。ひとつのメッセージは、その背後に潜在的な要素を引き連れていてはじめてことばとして機能する。それは示差的なシニフィアンの体系であって、あるシニフィアンはほかのシニフィアンとの差異によってみずからの意味を担うことができている。「わたしは学校へ行く」という文は、「彼は学校へ行く」という文と等価な構造を持っていることが前提されたうえで理解される。「彼は郵便局へ行く」「彼は郵便局へ走る」、無限に近い連鎖がある。パロールを構成する要素は一定の法則に従い交換が可能なのであり、潜在的にほかでもありうるものとして、この文が伝達される。また、ラングとパロールは、相互に影響を与え合う動的関係にある。話者によってルールに則って記述されたメッセージが、聴者によってデコードされ理解される、という事態は、自然言語のごく限られた局面にすぎない。ラングは、文法書や辞書に記載された機械的な法則や一覧表で

    honehonerock
    honehonerock 2019/01/04
    パロール/ラング/ランガージュをググったら後はすんなり読めた。芸術の見方としてめっちゃ分かりがある。
  • (反)現象学的還元 – Skenographia

    まずは、われわれの素朴なものの見方を図にしてみよう。 意味や意識の基底には物理的現実がある。わたしの手になじむハンマー、というものが存在するとして、これを私の所有物と認識し手になじむと感じるのは意識だ。これがハンマーと呼ばれ釘を打つ道具であるのは、人間の言語や社会における意味づけによる。それらを剥ぎ取って基底的なものへと還元すれば、すべては物質だ。木材と金属から構成された道具。原子、電子、原子核、云々。私の意識ももちろん、それらから構成された身体、細胞、脳のうちに生じる。 哲学者なら、たとえばフッサールならば、どう考えるだろうか。彼が提唱したのは、現象学的還元という手法、つまりすべての判断をいったん停止すること(エポケー)、それにより純粋な意識の機能を取り出すこと。 ここで基底的なものとみなされるのは、意識の作用だ。それはある種の志向性をもって意味ある世界を構成する。そこに木が立っている、

    honehonerock
    honehonerock 2018/10/02
    めっちゃ圧縮されてて硬質な解説きた!いきなりモノがバンっ!て入って来るのって、ちょっと悟りっぽい感じがする。
  • 最近の対話:象徴秩序への位置づけと自意識、統計学的超自我、写真と説明とか

    最近は土曜日が朝稽古、大荷物を背負って神社仏閣の業務写真を撮りつつ他の写真、夜ワークショップという流れが多いけれど、とにかくこの大荷物が半端ではない。 普段でも化粧ポーチやらやら荷物が多い人なのに、着替え一式に加えカメラ、パソコンまで持っていくと凄い重量。これをかついで三時間歩くというのはなかなか骨が折れる。 日曜日はグッと軽装備で二人で行動することが多いのだけれど、まったく楽しさが違う。 特にこのところ土曜日は都心オシャレエリア、日曜日は郊外や下町を巡ることが多いので、土日の温度差が激しい。 ダー氏と先日浅草を歩きながら「浅草はいいよねぇ、良い壁がたくさんある」とか話していたけれど、この会話が成り立つ関係が異様と言えば異様。良い壁ってなんだ。 綾瀬のタリーズで対談みたいに話が盛り上がった。録音しておけばよかった。 発達障害的なルールの絶対視と前提の不問、従わない人間は排除されて当然とい

    最近の対話:象徴秩序への位置づけと自意識、統計学的超自我、写真と説明とか
  • 美術館・アート情報 artscape

    ロラン・バルトが『明るい部屋』(1980)のなかで写真をめぐる経験として使用した対立概念。バルトによれば「ストゥディウム」は一般的、科学的関心を意味し、文化的にコード化された写真受容。それに対して「プンクトゥム」は一般的な概念の体系を揺さぶり、それを破壊しにやってくるものでコード化不可能な細部を発見してしまうような経験である。前者は「好き/嫌い」の次元に、後者は「愛する」の次元に属するという。バルトは『明るい部屋』以前から写真が「コードなきメッセージ」であることを主張し、写真の言表しがたい領域を「第三の意味」や「鈍い意味」、「意味の過剰」といった言葉で説明してきた。『明るい部屋』においても後半部は「プンクトゥム」の経験に分析の重点が置かれており、「温室の写真」と称される亡き母の少女時代の写真を介して、母と写真の質が開示される。写真という記号を題材としながらも、読み取りのコードの陥没点が立

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  • 写真集は撮りたいものを撮った結果じゃないし、写真は真実を写したものではない - 360万パワー

    写真を撮ったり、見たりするのは好きですが、これには失望しました。 男女300人の絡みを撮影...知性と理性を吹っ飛ばせて見えた境地とは【大橋仁 INTERVIEW】|タブロイド - オトコをアゲるスマホニュース はてなブックマーク - 男女300人の絡みを撮影...知性と理性を吹っ飛ばせて見えた境地とは【大橋仁 INTERVIEW】|タブロイド - オトコをアゲるスマホニュース 失望っていうのはブコメの内容で。 撮りたいより見せたい 失望の1つが、この写真集が撮りたいという気持ちの発露だと捉えられている点。 これは全然違う。 撮りたいという欲望ももちろんあるけれど、写真集や写真展というのは見せたい、見てもらいたいという気持ちの方が強い。 見せて欲しいからこそ写真集や写真展という形にしているので、撮りたいものを撮ったから写真集や写真展にしているわけではないのです。 卵が先か鶏が先か、みたいに

    写真集は撮りたいものを撮った結果じゃないし、写真は真実を写したものではない - 360万パワー
    honehonerock
    honehonerock 2014/12/27
    見せたいから、撮る、というのは、まあ、その通りやんね。轢殺した電車にスマホが殺到する動機とかほぼそれ。
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