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NutritionとHistoryに関するhotsumaのブックマーク (13)

  • サン・セルヴォロ 精神病院博物館 | ヴェネツィア ときどき イタリア

    Museo di Manicomio di San Servolo (かつては)マニコミオ(manicomio、精神病院)の代名詞のようでもあったサン・セルヴォロ島(Isola di san Servolo)。 だが、もともとこの島が、最初から精神病院であったわけではない。 1715年、ヴェネツィアがオーストリアと組んで対トルコ戦争を開始。そのとき、ヴェネツィア共和国は、カステッロ地区に兵士たちのための病院を作った。が、そこはすぐに手狭になり、新たに目をつけられたのが元修道院だったサン・セルヴォロ島。ここを新たに、軍属病院とした。 「きちがい(pazzo)」患者が、最初に入院したのは、1725年。以後、30年の間に、60名弱の「患者」が入院している。もっとも、実は入るのにはそれなりの金額を必要としたため、この時期に入院している「きちがい」は、貴族や有力家庭の出身者だった。軍病院に併設された

    サン・セルヴォロ 精神病院博物館 | ヴェネツィア ときどき イタリア
    hotsuma
    hotsuma 2011/09/27
    "「きちがい(pazzo)」患者が、最初に入院したのは、1725年。以後、30年の間に、60名弱の「患者」が入院" "入院している「きちがい」は、貴族や有力家庭の出身者だった。"
  • http://light.kakiko.com/sionta/MizuNH.htm

  • なぜ大正時代に衝心脚気が無くなったのか? - NATROMのブログ

    辰野/浦口の論理にいささかおかしいところがあったとしても、大正時代に衝心脚気が消失したことについて何らかの説明が必要だとお考えの方のいるかもしれない。辰野*1は「(”衝心性脚気”は)明治末期から大正の初めにかけての年代に無くなってしまった」と書き、浦口*2は"Shoshin-kakke disappeared from the country almost completely after 1929."と書いた。大正時代に日の脚気による死亡者数は減っていないことは■米の検定は脚気死亡数に影響せずで示したが、「米の検定によってカビ毒による衝心脚気は減ったが、全脚気死亡者数はビタミン欠乏による通常の脚気が大半を占めるため、統計値として表れない」という可能性はあるのだろうか? 東京大学における衝心脚気の病理解剖数の減少*3 辰野/浦口の主張の根拠は、東京大学病院で死亡した患者の病理解剖の記録で

    なぜ大正時代に衝心脚気が無くなったのか? - NATROMのブログ
  • 北里柴三郎と東大派の対立を考える - memorandum

    明治時代の医学に関心があるものにとって、北里柴三郎と東京帝国大学の対立は常識であり、興味を引くトピックであることは間違いないだろう。たとえば、Wikipediaにも、以下のようにある。 ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈した為、恩知らずとして母校東大医学部と対立する形となってしまい帰国後も日での活躍が限られてしまった。この事態を聞き及んだ福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となった。その後、国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となり伝染病予防と細菌学に取り組む。1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげた。 かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと内務省所管ということで

    北里柴三郎と東大派の対立を考える - memorandum
  • 「鴎外 森林太郎と脚気紛争」を読んでみたよ - memorandum

    鴎外 森林太郎と脚気紛争 作者: 山下政三出版社/メーカー: 日評論社発売日: 2008/11/01メディア: 単行購入: 1人 クリック: 10回この商品を含むブログ (5件) を見る 脚気論争に踏み込んだあまり、このようなまで購入する羽目になってしまった。とほほほほ。信じてくれないかもしれないけど、先のエントリーを書くまで、森鴎外に興味なかったのに。 きちんとした書評は後で書くかも知れないけど、今日は、を読んだ直後の第一印象を書き進めようと思う こののキモは、森鴎外を脚気撲滅の功労者として、再評価していることにある。ネタバレになるかも知れないが、書の末尾は、以下のような言葉で結ばれている。 暗黒のなかで、高木兼寛は兵を改革し海軍の脚気を撲滅する、というビタミンの先覚的な業績をあげた。森林太郎は臨時脚気病調査会を創設し脚気研究とビタミン研究の基礎をつくり、日の脚気絶滅への

    「鴎外 森林太郎と脚気紛争」を読んでみたよ - memorandum
  • 米の検定は脚気死亡数に影響せず - NATROMのブログ

    どんどんブクマ数が減っていくが、ついて来れない奴は置いていく!さて、■衝心脚気の原因はカビ毒か?で紹介した辰野/浦口の主張について、まず目に付く問題点は、通常の脚気と衝心脚気の混同である。医学的な定説に立てば、両者は病因を同じくする連続した疾患であるのだが、辰野/浦口によれば、「通常の脚気の原因はビタミン欠乏、衝心脚気の原因はカビ毒」であるので、両者を明確に区別しないとおかしい。衝心脚気の病理解剖数が米の公の検定により減っていったことを示すグラフに「一時的に1916年に脚気が増加したことにより1916年〜1918年の期間に高い平均値を与えた」とあるが、「ビタミン欠乏による脚気」が増加したからって「カビ毒による衝心脚気」が増加するのはおかしい。混同は他の場所にも見られる。「大正の初めのころには、日で脚気で死亡する人はほとんどいなくなってしまったのです」「ビタミンBによって日の脚気が克服さ

    米の検定は脚気死亡数に影響せず - NATROMのブログ
  • 衝心脚気の原因はカビ毒か? - NATROMのブログ

    クリスマスおめでとう!さっそく脚気の話をするよ。脚気がカビ毒(マイコトキシン)に関係するとする説もいろいろであり、「カビ毒は衝心脚気様症状を起こす」という脚気とビタミン欠乏の関係を否定しないものから、「脚気の原因はビタミンB1欠乏ではなくカビ毒である」とするトンデモ説まで幅がある。ここでは、辰野高司著「カビがつくる毒 日をマイコトキシンの害から守った人々」東京化学同人発行(1998年)、から引用する。東京化学同人発行という比較的信頼できる組織から発行され、手に入りやすい日語の文献であり、著者の辰野が浦口健二(脚気がカビ毒に関係するという説の提唱者)の直系の弟子であるからだ。 辰野/浦口の主張は、要約すると、「ビタミン欠乏による脚気の存在も否定しないものの、衝心脚気はカビ毒が原因であり、明治の終わりから大正の初めにかけて衝心脚気が日から消失したのは、公の米の検定によりカビに汚染された米

    衝心脚気の原因はカビ毒か? - NATROMのブログ
  • 衝心脚気についての医学的定説 - NATROMのブログ

    最近、脚気づいているのは、脚気とカビ毒に関する異説を紹介する前に定説を理解してもらおうって流れから。今回は、脚気の病型の一つである衝心脚気(しょうしんかっけ)についての医学的定説を紹介する。というのも、「衝心脚気は通常の型の脚気とは区別される独立した疾患であり、ビタミン欠乏とは直接関わりがない」という(定説とは異なる)主張があるからである。さあ、どんどん話がマニアックになっていくよ。 衝心脚気は英語でcardiac acute beriberi(心臓急性脚気)、acute cardiovascular beriberi(急性心血管性脚気)、fulminant cardiac beriberi(劇症心臓性脚気)とか呼ばれることもあるが、Shoshin beriberiというのが一般的であるようだ。Shoshinはそのまんま衝心で、beriberiは脚気のこと。現在、英文の医学論文検索エンジン

    衝心脚気についての医学的定説 - NATROMのブログ
  • 長門で学ぶビタミンB1発見史 - NATROMのブログ

    ■やる夫で学ぶ脚気論争では、高木兼寛と森林太郎の論争を通じて、事の改善が脚気を予防しうることを学んだ。しかし、蛋白質不足/炭水化物過剰が脚気の原因であるとする高木の仮説は、現在の知識から考えると不正確である。定説の脚気ビタミンB1欠乏説の成り立ちを知ることは、科学がどのように進歩するのかを理解するのに役に立つだろう。 19世紀末は、結核菌、コレラ菌などが次々と発見された細菌学の勝利の時代だった。エイクマン(Eijkman)も、細菌学の開祖とされるコッホの研究室で細菌学を学んだ。当時、脚気も細菌によるものであると考えられ、オランダの脚気調査チームも脚気菌を発見したと報告した。エイクマンは、バタビア(インドネシア)の研究所で、脚気菌の研究を引き継いだが、困ったことに追試は成功しなかった。 でも1889年になって無視出来ないイレギュラー因子がエイクマンの周囲に現れた。それが、脚気様症状が出現し

    長門で学ぶビタミンB1発見史 - NATROMのブログ
  • 石黒忠悳が批判されない理由がよく分からない - memorandum

    脚気に関して、森鴎外に対して批判的な意見、もっと言えば薬害エイズの時の安部教授の様な「お前がいたから脚気で何万人も死んだんだよ」という意見が目立つのだが、それはいささか不当な批判ではないかと思う。 例えば、よく見かける批判が、森鴎外が脚気感染症説に固執していたと言うものである。 当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌による感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(及びイギリス医学)と対立した。 森鴎外 - Wikipedia しかし、私が調べる限り、森鴎外が感染症説を主張した事実は無いように思えるのだが。 森の上官である軍医監石黒忠悳は、早く1878年に『脚気論』を出版して細菌説を唱えていた。1885年に海軍の高木、陸軍の堀内らの麦飯説(栄養障害説)が有力になり始めると、それに対抗してあらたに『脚気談』(1885)を出版して、栄養説は信ずるに足らないと主張し

    石黒忠悳が批判されない理由がよく分からない - memorandum
  • 高木兼寛は麦飯で脚気を防止する事ができたのか - memorandum

    題の前に、前置き。大麦を加工したものの中に、ビタバァレーがある。 「はくばく ビタバァレー 540g(45g*12袋)」は、大麦にビタミンB1をプラスした、ヘルシーでべやすい麦(ビタバァレー)です。 はくばく ビタバァレー 大麦 540g(45g×12袋) 【ケンコーコム】 ビタミンB1が豊富なはずの大麦に、なぜビタミンB1をプラスするのだろうか。 さて、id:NATROMさんのコメントに答える形で、題に入ります。 日清・日露戦争の死亡者に関しては、和か洋かと言う話ではなく、米か麦かという話です。 米か麦かという話であれば、米に含まれるビタミンB1の量と、麦に含まれるビタミンB1の量を比較する必要があると考えます。高木兼寛がどのようにして海軍の事を改善したかは、脚気病原因の研究史に記述されてますね。 最終的には、麦を一日辺りで200グラム出した事になりますが、さて、

    高木兼寛は麦飯で脚気を防止する事ができたのか - memorandum
  • おっと、森鴎外を批判するのはそこまでだ - memorandum

    やる夫で学ぶ脚気論争 - NATROMの日記に触発されたエントリーです。 はてなブックマーク - やる夫で学ぶ脚気論争 - NATROMの日記をみる限り、森鴎外を批判している人が多いように思うけど、それは正当な批判なんだろうか。ある程度までは正しい批判かも知れないが、過剰な批判というものも多いのではないだろうか。 つまり、我々はビタミンの存在を知り、ビタミンが欠乏すると病気になると知っているからこそ、森鴎外を批判できる訳なんだけど、ビタミンの存在を知らない当時の人にとっては、脚気感染症説にこだわるのも無理はないのではないかと考える次第。森鴎外に対する批判の中には、後出しじゃんけんの批判も含まれているんじゃなかろうか。 取りあえず、まず脚気について、おさらい。と言うか、Wikipediaから引いてみる。 病態 症は多発神経炎、浮腫(むくみ)、心不全(脚気心、脚気衝心)を三徴とする。 脚気

    おっと、森鴎外を批判するのはそこまでだ - memorandum
  • やる夫で学ぶ脚気論争 - NATROMのブログ

    脚気は米を主とする日や東南アジアに多発した病気で、定説ではビタミンB1の欠乏が原因とされる。ところがカビ毒が原因であるという異説もあり、調べ始めたらこれが面白い。そのうちブログに書くが、とりあえずは定説の成り立ちを理解していないと面白さがわからない。そこでまずは定説を解説してみた。教科書的に書いても良かったのだが、面白く読んでもらおうと思ったらこうなった。 ____ /\  /\     海軍軍医高木兼寛だお! /( ●)  (●)\   日の軍隊は脚気が多すぎるお! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\  英国留学帰りの私が |     |r┬-|       |  日のために脚気を根絶させるお! \     ` ー'´     / 高木 兼寛(1849年〜1920年) ____ /⌒  ⌒\ /( ●)  (●)\   原因究明のため、まずは /::::::⌒(__人_

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