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内田樹に関するikutosuのブックマーク (24)

  • 反省しない人々 - 内田樹の研究室

    海の日。 世間は休みであるが大学は開校日である。 どうして国民の休日に大学の授業があるかというと、文科省が「すべての曜日半期15回必ず授業をやるように」と強く要望しているからである。 月曜日は休日に当たっていることが多いので、15回やろうと思うと、8月中旬まで補講をしないといけない。 亜熱帯の日でどうしてお盆のころまで授業をしなければならないのかと思うのだが、日人の壊滅的な学力低下に対して文科省はとりあえず「15週確保」しか思いつかないのである。 14週を15週にしたくらいで学生の学力が上がるなら誰も苦労はしない。 15週にして学力が上がるなら、20週にすればもっと上がる道理である。月月火水木金金一年365日休みなしで授業をすればさらに学力は上がる道理である。 もちろんそんなことをしても学力低下は止まらない(やれば、わかる)。 教室で眠る生徒や、遊ぶ学生や、そもそも学校に来ない子どもが

    ikutosu
    ikutosu 2009/07/21
    総括なくして次々に施策だけ垂れ流し。その中で一番の被害を被るのは次世代の子どもたちなんだけれど。
  • 株式会社立大学の末路 - 内田樹の研究室

    株式会社が設立した LEC リーガルマインド大学が、入学者の減少などから、来年度以降の学部生の募集を停止すると発表した。 LEC 大学は、資格試験対策の予備校「東京リーガルマインド」が2004年に設立した。 全国に14キャンパスあったが、志願者減少に伴い募集停止や統廃合を行い、今年度は千代田キャンパスのみの募集であった。 今年度の入学者は、定員160人に対して18人。累積赤字は30億円に達していたという。 2007年1月には、専任教師の大半に勤務実態がない、ビデオを流すだけの授業を行っていたなどとして、文部科学省から改善勧告を受けていた。 株式会社立の大学については、これは高等教育機関としては機能しないと私は最初から言い続けてきた。 「教育はビジネスではない」からである。 「教育はビジネスだ」と信じた人たちが構造改革特区制度を利用して、わらわらと大学経営に参加してきたのが、2004年のこと

    ikutosu
    ikutosu 2009/06/21
    イクブンカンを徹底的にだめにしているどこかの飲み屋のオヤジにも、早い所出て行ってもらいたいですな。つぶれるよあの学校。偽装することでしか自分を守れないんだから。
  • 「父」からの離脱の方位 - 内田樹の研究室

    『1Q84』は記録的な売れ行きらしい。 今の段階で、発売一週間で96万部。 ミリオンを超えることは確実で、『ノルウェイの森』の450万部という記録を塗り替えるかもしれない。 おそらくメディアはこれから、このの文学作品としての意味より、なぜこれがこれほどの社会的な「事件」を引き起こしたのかの方に多くの紙数を割くようになるだろう。 メディアが『1Q84』を「事件」として扱い、膨大な非文学的言説が行き交うようになる前の短い空白の間に、この作品についてまだ誰の感想も聞いていないイノセントな状態で、自分ひとりの感想を書き付けておきたい。 ムラカミ・ワールドは「コスモロジカルに邪悪なもの」の侵入を「センチネル」(歩哨)の役を任じる主人公たちがチームを組んでい止めるという神話的な話型を持っている。 『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『アフ

  • 小学生にはむずかしい文章 - 内田樹の研究室

    ある教科書会社から小学校の教科書のために何か書いて欲しいと頼まれた。 めんどくさいから厭だと最初は断った。 「中学生にもわかるように書く」ということは『先生はえらい』でやってみたので、できそうな気もするが、「小学生にもわかるように書く」というのはちょっと私には無理そうに思えたからである。 私は一度書いた原稿に「ここがわかりにくいので書き換えてくれ」とか「この字は読みなれていないので、ひらがなにしてくれ」とか言われるのが嫌いである。 だから、「そのままの原稿では出せません」と言われると、「あ、そうですか」とそのままオサラバすることにしている。 私の文章を読んで「意味がわかりません」という人間と「私の文章」を介して話し合いをすることは、論理的に考えて、純粋な消耗だからである。 今回は、「私の書くものは小学生向きじゃないですよ」といったのに、でもぜひにと頼まれたので、なるべくむずかしい漢字や子ど

    ikutosu
    ikutosu 2009/02/23
    来年の中学入試に使わせていただきますか。
  • 壁と卵(つづき) - 内田樹の研究室

    村上春樹のエルサレム・スピーチについて二件の電話取材を受けたと書いた。 電話取材というのはむずかしい。 30分ほどしゃべったことを5行くらいにまとめられているコメントの場合には、「言いたいこと」が活字になっているということはほとんどない。 私が「言いたいこと」というよりは記者が「理解できたこと」が書いてある。 場合によっては記者が「言いたいこと」が私の名前で書いてあるということもある。 たぶん読む方もそれくらいに割り引いて読んでくれるだろうから、あまり硬いことは言わないつもりである。 それでも、わずかな字数では意を尽くせないことがある。 私がそのとき言いたかったことをここに書きとめておきたい。 それは「壁」というメタファーについてである。 もっとも一般的な解釈は「壁」を政治的な暴力装置、「卵」をその犠牲者と見立てることである。 もちろん、村上春樹自身もその解釈を否定しているわけではない。

  • 大学はどうなるのか - 内田樹の研究室

    バリ島から帰ってきてそのまま会議。 ほんとうは午前中にも会議があり、それにも出席しなければならなかったのであるが、その頃はまだ家にたどりついていなかったのでご無礼。 30分ほど前に教務部長のデスクにつくや、教務課長が「ちょっとご相談が・・・」とおいでになっていろいろ相談ごと。 むむむ、それは困ったことですな。 ま、ナントカしましょう。 その後学長を囲んでややコンフィデンシャルな会議。 むむむ、それは困ったことですな。 ま、ナントカなるでしょう。 その後合否判定教授会。 一般入試の志願者数は全学平均で前年比98%(総合文化学科は前年比103%)。 「100年に一度」の経済危機で、志願者が志望校の絞り込みに入っている今年は、私学はどこも軒並み志願者数を下げて、苦戦している。 新学部新学科は「ご祝儀」で、初年度には必ず志願者が殺到するのだが、それもうまくゆかない大学が多い。 受験生たちも「こうや

    ikutosu
    ikutosu 2009/02/08
    うちの理事会にも読ませたい内容ですね。
  • 大統領就任演説を読んで - 内田樹の研究室

    20日、バラク・オバマが第44代アメリカ大統領に就任した。 その就任演説を読む。 そのまま英語の教科書に使えそうな立派な演説である。 アメリカという国が「もともとある」共同体ではなく、国民ひとりひとりが自分の持ち分の汗と血を流して創り上げたものだという考えが全体に伏流している。 その建国にかかわった人々への言葉が印象的である。 For us, they packed up their few worldly possessions and traveled across oceans in search of a new life. 私たちのために、彼らはわずかばかりの身の回りのものを鞄につめて大洋を渡り、新しい生活を求めてきました。 For us, they toiled in sweatshops and settled the West; endured the lash of th

  • 入試「改革」のご提言について - 内田樹の研究室

    センター入試の日に新聞の社説に入試改革の提言が載せられている。 毎日新聞の社説子はこう書いている。 「少子化や規制緩和の大学増設なので大学の学生獲得競争が次第に強まり、科目を減らしたり独自学力試験をしないなど、試験を安易にする傾向が現れた。 時間をかけ多角的に審査するはずのAO(アドミッション・オフィス)入試や従来の推薦入試も形骸化が指摘される。4割以上が学力検査をくぐらず入学するまでになっている。 一方で大学生の深刻な学力低下が報告される。6割の大学が高校レベルの補習をするなど基礎学力の補完をしている。そうしないととても専門教育ができないという。基的な教養の欠落も指摘されている。」 ご指摘の通りである。 そのことに私たち大学人も深く苦しんでいる。たぶん、日でいちばんそのことに苦しんでいるのは、「基礎的な学力」のない学生たちと現場で向き合っている私たちである。 そのわれわれに向かって論

    ikutosu
    ikutosu 2009/01/20
    学ぶこと自体の価値を再構築しないとな。
  • 読者と書籍購入者 - 内田樹の研究室

    私は論争ということをしない。 自分に対する批判には一切反論しないことにしているから、論争にならないのである。 どうして反論しないかというと、私に対する批判はつねに「正しい」か「間違っている」かいずれかだからである。 批判が「正しい」ならむろん私には反論できないし、すべきでもない。 私が無知であるとか、態度が悪いとか、非人情であるとかいうご批判はすべて事実であるので、私に反論の余地はない。粛々とご叱正の前に頭を垂れるばかりである。 また、批判が「間違っている」なら、この場合はさらに反論を要さない。 私のような「わかりやすい」論を立てている人間の書き物への批判が誤っている場合、それはその人の知性がかなり不調だということの証左である。そのような不具合な知性を相手にして人の道、ことの理を説いて聴かせるのは純粋な消耗である。 というわけで私はどなたからどのような批判を寄せられても反論しないことを党是

  • カフェ・ヒラカワ店主軽薄

    2020.06.22 『隣町珈琲』突然の移転に伴う寄付のお願い (1) カテゴリ:ヒラカワの日常 ​​​ ● 突然の退去依頼が 2014年3月より東急池上線荏原中延駅商店街の外れで営業してきた「隣町珈琲」は、地域のお年寄りや、主婦が気軽に憩える喫茶店としてスタートし、その後、講演会、勉強会、古典芸能のイベントやこども堂、書店営業などを展開してきました。現在は、地域文化の発信拠点として、荏原中延という町のシンボル的存在になっています。 2020年には、地域文芸誌「mal”」を創刊し、大田区の作家にして旋盤工の小関智弘を特集しました。 同誌には、内田樹、岡田憲治、小田嶋隆、川三郎、小池昌代、佐々木幹郎、関川夏央、鶴澤寛也、豊崎由美、中田考、名越康文、古屋美登里、三砂ちづる、宮内悠介、森あんり、安田登(以上敬称略)ら錚々たる面々が寄稿してくれました。 何よりも、「隣町珈琲」の講座に集ってく

    カフェ・ヒラカワ店主軽薄
  • 「内向き」で何か問題でも? - 内田樹の研究室

    先日、苅谷剛彦さんと対談したときに、日のように「国内に同国語の十分なリテラシーをもつ読者が1億以上」というような市場をもつ国は世界にほとんど存在しない、ということを指摘していただいて、「ほんとにそうだよな」と思ったことがある。 「国内に同国語の十分なリテラシーをもつ読者が一億以上」いるということは、言い換えると、「日語を解する読者だけを想定して著作や出版をやっていても、飯がえる」ということである。 日人が「内向き」なのは、要するに「内向きでも飯がえる」からである。 「外向き」じゃないと飯がえないというのは国内市場が小さすぎるか、制度設計が「外向き」になっているか、どちらかである。 どうしてそんなことを考えたかというと、テレビ政治討論番組で「フィンランドに学ぶ」という特集をしているのを横目で見ていたからである。 フィンランドはノキアという携帯電話のシェア世界一のブランドを有して

  • 福翁の「はげしい」勉強法 (内田樹の研究室)

    文部科学省は22日、13年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改訂案を発表した。「英語の授業は英語で行うのが基」と明記し、教える英単語数も4割増とする。 高校の改訂案では英語で教える標準的な単語数が1300語から1800語に増加。同様に増える中学とあわせて3千語となる。中高で2400語だった前回改訂の前をさらに上回り、「中国韓国教育基準並みになる」という。 改訂案は「授業は英語で」を初めてうたった。長年の批判を踏まえ「使える英語」の習得を目指すという。(12月22日朝日新聞) 水村美苗さんの『日語が亡びるとき』を読んで、「英語の言語的一元支配」が「現地語文化」をどのように滅ぼすことになるのかについて暗い予測をしているときに、こういう記事を読まされると、ほんとうに気が滅入る。 すでに現在の日の高校生の英語学力は壊滅的なレベルにある。 それは「文法、訳読中心の授業のせいで、オー

  • 日本の外国文学研究が滅びるとき - 内田樹の研究室

    水村美苗さんの話題作『日語が亡びるとき-英語の世紀の中で』を鹿児島への機内で読了。 まことに肺腑を抉られるような慨世の書である。 『街場の教育論』で論じた日教育についての考えと通じるところもあり、また今書いている『日辺境論』の骨格である、日はユーラシア大陸の辺境という地政学的に特権的な状況ゆえに「政治的・文化的鎖国」を享受しえた(これは慶賀すべきことである)という考え方にも深いところでは通じているように思う。 とりわけ、「あらまあ」と感動したのは、「アメリカの植民地になった日」についての考察である。 明治維新のときに欧米帝国主義国家がクリミア戦争や南北戦争や普仏戦争で疲弊していなければ日は欧米の植民地になっていただろうということを言うひとは少なくないが、「植民地になって150年後の日」についてまで SF 的想像をめぐらせた人は水村さんをもって嚆矢とするのではないか。 「たと

  • 朝の読書 - 内田樹の研究室

    卒論中間発表。 今回は2人欠席で13名が20分間ずつ発表。 正午に開始して、終了したのが6時。 うう、疲れたぜい。 どれもたいへん面白い発表だった。「裁判員制度」や「女子大の存在意義」や「おひとりさま」や「消費者参加型マーケティング」については、そのつどこのブログで自説を述べたので、今回はまだ一度も言及していないトピックについて。 「朝の読書」である。 ウィキペディアの説明を貼り付けておく。 「朝の読書運動は小・中・高等学校において、読書を習慣づける目的で始業時間前に読書の時間を設ける運動。個々の学校や担任単位で 1970 年代から各地で行われてきたものであるが、1988 年の東葉高等学校の運動をきっかけに全国に広まった。とくに小学校で盛んである。 読書時間は 10 分から 15 分程度である。生徒が持参した、あるいは学級文庫の中から選んだを読む。とくに小学生を対象として、読書教材を少な

  • 内田樹の研究室

    ローカリズム宣言 地方移住のための情報誌「TURNS」で2年間ほど連載していたインタビューを採録しました。グローバル資主義の終焉、少子高齢化による過疎化と限界集落化という現実を踏まえて、「地方移住・帰農・山河の回復」というオルタナティブについて提言をしております。 昨日うかがった話では、地方移住支援のためのある NPO の窓口を訪れた人は去年一年で 25,000 人、10 年前の 10 倍にのぼるそうです。半数以上が 20 代 30 代とのこと。 この趨勢はもう止まることがないでしょう。 デコ/2017-12-07 変調「日の古典」講義 安田登さんと二人であちこちで行った対談の集成。話題は『論語』から能楽まで多岐にわたります。安田さんが何か驚くべきことを言うとこちらも負けじとさらに驚くべきことを言い、安田さんがそのような挑発を受け流すはずもなく、さらに驚くべき話で切り返す・・・という悪

  • 大相撲に明日はあるのか? - 内田樹の研究室

    『中央公論』の I 上くんが来て、「相撲」について取材を受ける。 相撲ですか・・・ もう長いことテレビで相撲を見ていない。 新聞でも相撲の記事はまず読むことがない。 力士の名前もほとんど知らない。 聞くと、相撲は不祥事続きで、客も不入りだし、視聴率も低下するばかりで、もうどうにもならない状態なのだそうである。 そうでしょうねと思う。 理由はいろいろあると思うけれど、要するに「相撲とは何か?」という根源的な問いを誰も真剣に引き受けたことがなかったことがおおきな理由だろうと思う。 相撲は神事なのか? 武道なのか? 格闘技なのか? スポーツなのか? スペクタクルなのか? 伝統芸能なのか? とりあえず、神事を含んではいるが、それ自体は神事ではない。 そのようなものに「公正中立」の NHK が電波を貸すわけにはゆかない。 武道でもない。 武道というのは「心身の生きる力を高め、潜在可能性を開花させるた

  • 被害者の呪い - 内田樹の研究室

    毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。 いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。 昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。 こんな話。 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「

  • ストレスフル・ライティング - 内田樹の研究室

    日曜日なので、一日お休みである。 たまった原稿を書かねばならぬ。 『論座』に「靖国」上映をめぐる問題について原稿をさらさらと書いて、送稿。 続いて、『教育と医学』というところの教育論を書く。 字数が6000字と多いので、なかなか終わらない。 疲れたので、休憩に「中国とどう付き合うか」という「週刊現代」のエッセイを書く。 さらさらと筆が進む。 私の場合、理由は簡単で、「これを読んだら頭から湯気を出して怒る人がたくさんいるだろうな」と思うと、筆の滑りがたいへんよろしくなるのである。 なぜなのであろう。 むろん、私とて人の子、一読した編集者が感動のあまりうめき声をあげ、植字工(なんてもういないのかしら)が活字を拾いながら躍り上がり、満都の読者が随喜の涙をこぼし、批評家も絶賛、というようなものを書きたいとは念じている。 しかし、みんなが喜んでくれることを書こうとすると、これが不思議なことに「頭から

    ikutosu
    ikutosu 2008/04/14
    ものを書くときのオーディエンスをどう意識するかのさんこうになるかも。
  • 人生はミスマッチ (内田樹の研究室)

    リクルートの出している「RT」という冊子の取材が来て、「高校の先生に言いたいこと」を訊かれる。 中高の現場の先生には基的に「がんばってね」というエールを送ることにしている。 現場の教師の士気を低下させることで、子どもたちの学力や道徳心が向上するということはありえないからである。 現場の教師のみなさんには、できるかぎり機嫌良くお仕事をしていただきたいと私は願っている。 人間は機嫌良く仕事をしているひとのそばにいると、自分も機嫌良く何かをしたくなるからである。 だから、学校の先生がすることは畢竟すればひとつだけでよい。 それは「心身がアクティヴであることは、気持ちがいい」ということを自分自身を素材にして子どもたちに伝えることである。 「気持ちよさ」は知識や技能を持っているので「まことに便利だ」という仕方で表現してもよいし、推論や想像で思考が暴走するのは「ぞくぞくする」という仕方で表現してもよ

    ikutosu
    ikutosu 2007/11/06
    こういうエールをいただくと、元気が出て来るなあ。内田さん、ありがとうございます。
  • 鼓腹撃壌のしあわせ - 内田樹の研究室

    安倍首相は続投のようである。 「厳しいご批判を頂いたので、このまま職責を全うすることで負託された使命を果たしたい」という、企業不祥事を起こした会社の経営者が「最初の記者会見」で必ず口にする台詞を首相も繰り返した。 不思議なロジックである。 「不思議」というのは「不合理」ということとは違う。 仕事に失敗したときに、その場から逃げ出さす、踏みとどまって批判の十字砲火の下で引き続き仕事をするという選択は「あり」である。 「あり」どころか、場合によっては、それなりに自負心のある人間にしか下せない勇気ある決断と申し上げてよい。 しかし、これが「勇気ある決断」として称揚されるためにはひとつだけ条件がある。 それは「この決断を下した人はこれまで高い確率で正しい決断を下し続けてきたので、この『勇気ある決断』もまた正しい決断である蓋然性が高い」という外部評価が存在することである。 失敗を咎められた人間が「引

    ikutosu
    ikutosu 2007/07/31
    安倍ぼけ総理にたいするこれだけ痛烈な批判は他にないね。