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ある人と向かい合うことは、その人の評判や評価と向かい合うことでもある。それだけではない。その人がとっている私以外の人との関係、その人を取り囲む環境、そしてその人の過去と向かい合うことだった。 書かれたものと出会うことしかできないので、その人の過去は、書かれてきたものの蓄積として出現する。評価するものは、その蓄積との対峙を強いられる。そういうことだと思う。作者のほうはどうかというと、評価がどうであるかといったことより、自分と付き合ってくれる読者、その欲望に、あまりに救われてしまうのだが。 純粋に「作品」とだけ向かい合うことは可能なのだろうか。このへんは「テクスト論」と呼ばれ、フランスの批評がやりつくしてしまった世界である。それは作品から作者を切り離すこと、いいかえると、作品を、作者の欲望や、第二の創造である私を含む読者の個人的な欲望から自由にするという作業を意味した。 純粋な作品としての作品
年末恒例イベントとなっている「今年のベスト~」といったものをあちこちで目にする。つい、飽きもせず、と書きたくなるところだが飽きることはない。総括はきっと重要なのだろうし、世界は広大、一年はそれほど長い。 過ぎ去ってしまえばひと呼吸の間に思い出せてしまう一年に、それは重さと長さを与えようとする試みである。そこには、海に向かって石を投げているといったむなしさの風情もあるものの、両手にハムをつかんでいるのにさらにハムがないと叫んでいる買い物客の風情もある。反省とは、すでに手に入れているものを、失うことなくもう一度手に入れる方法なのだ。 手前味噌!これでもフェミニストだ文句あるか男女論10選「Ohnoblog 2」のすがすがしさに倣って、ぼくも自選としたい。大野氏の自選記事では「『私という病』を読む」が感動的だった(twitterでも話題にした)が、そんなふうに自選が読者からの評価と一致するという
ただ低いほうへと流れ落ちてゆくのに、誰とも違った場所に出ることがある。どこかで流れにさからい、そのときの恋人を眠りの岸辺として航路を外れ、どこにもない場所に流れ着くということがある。 抵抗するものは肉体のある場所に戻り、そこで手紙を書き続け、書き綴られた手紙を読み返している。くりかえすと、諦めるということは、エロスから肉体を消し去ることではないのか。そのときも絶えようとするエロスをそっと集めて、手紙の主人公とする。 「あのひとがいないときには、あのひとについて考えることができる。いるときは見つめることさえできないあのひとを、見つめることができる」 そうして会えない日々にこそ共にありながら一月が暮れ落ちる。だから一月の終りは希望のように不完全だ。「永遠の流浪者としてのアブラハム」(アブラハムかオデュッセウスか「三上のブログ」)に思いつきで差し挟まれた四分休符のような、あいまいな一月の終り。ゆ
ちょうど分数を習い始め、「二分の一」を初めて知ったころ、子どもの10歳の祝いに「二分の一成人式」といった催しを思いついて、いったい誰が?、子どもに手紙を書くようにという連絡が学校からきた。 子どもは瞬間、瞬間にあるがままで、きみの中には成長はない、と書いてしまう。時の流れのなかにいるものは、時の流れを知ることはない。ぼくは、きみを思い描くと、時を忘れることができる。そのときぼくはきみの歴史が見える、時の河の彼岸に立っているわけではない。きみと同じ流れに流れている。 やはり覚えているのは、「沈黙の呼びかけ」といったことを、きみが初めて試した瞬間だった。「小さな声」で呼んだけど聞こえたかときみは問うた。それは、こころの中の言葉というものと、きみとの出会いであり、そうして、語られることなく語られる言葉がつくりだす場所、そこからきみが始まるのだと思った。 内面は語られなかった言葉でできている。けっ
2008年02月25日19:00 カテゴリLovePsychoengineering 記憶とは、傷である。 いい機会なので、「傷つく」ということについてまとめておくことにする。 30歳から34歳が受けた心の傷 どうしたらいいの? おしえて、ダンコーガイ! 心の傷つかない人間は凄いと思う - Screw Pile Driver 少なくとも、僕は『バカ』って言われたらそれだけでも傷つく。 本entryのタイトルどおり、私は記憶とは傷であると考えている。形而上的な意味だけではなく形而下的な意味でも。詩的な意味だけではなく散文的な意味でも。 人類にとって、記録を取るとは、文字通り媒体に傷をつけていくことだった。石に石で傷つけ、粘土版にヘラで傷つけ、パピルスにペンで傷つけ、木簡に筆で傷つけ....これは現在においても、記録の基本だ。CD-Rというのは、強いレーザーでブランクに傷をつけて記録し、弱いレ
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