エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
坂のある非風景 追悼、アラン・ロブ=グリエ
ある人と向かい合うことは、その人の評判や評価と向かい合うことでもある。それだけではない。その人が... ある人と向かい合うことは、その人の評判や評価と向かい合うことでもある。それだけではない。その人がとっている私以外の人との関係、その人を取り囲む環境、そしてその人の過去と向かい合うことだった。 書かれたものと出会うことしかできないので、その人の過去は、書かれてきたものの蓄積として出現する。評価するものは、その蓄積との対峙を強いられる。そういうことだと思う。作者のほうはどうかというと、評価がどうであるかといったことより、自分と付き合ってくれる読者、その欲望に、あまりに救われてしまうのだが。 純粋に「作品」とだけ向かい合うことは可能なのだろうか。このへんは「テクスト論」と呼ばれ、フランスの批評がやりつくしてしまった世界である。それは作品から作者を切り離すこと、いいかえると、作品を、作者の欲望や、第二の創造である私を含む読者の個人的な欲望から自由にするという作業を意味した。 純粋な作品としての作品