タグ

沖縄と歴史に関するirbsのブックマーク (29)

  • 沖縄初アナウンサーが語る「戦後」 70年前に芽生えた屈辱「沖縄を切り離した」:東京新聞 TOKYO Web

    土」への疑念は、70年前に芽生えていた。1952年4月28日。戦後沖縄にできたラジオ放送局で、アナウンサーとして活躍していた川平朝清さん(94)は、この日のサンフランシスコ講和条約発効を、研修中の東京で迎えた。独立に沸く土の新聞記事を読んだ衝撃を、今も覚えている。(安藤恭子)

    沖縄初アナウンサーが語る「戦後」 70年前に芽生えた屈辱「沖縄を切り離した」:東京新聞 TOKYO Web
  • 「沖縄にはこんな風景があった」大正から昭和…よみがえる古里の姿165枚【写真特集】 | 琉球から沖縄へ 続よみがえる古里 | 沖縄タイムス+プラス

    西洋風の建築物や路面電車が走る那覇の近代的な街並み、琉球王国時代からの伝統の芸能や暮らし。朝日新聞大阪社で見つかった戦前の沖縄の写真には、琉球が日の1県として変わっていく姿と、祖先から受け継いだ生活文化を営む人々のたくましい姿が入り交じる。那覇、島尻、やんばる、宮古、八重山。沖縄戦後、風景は一変したが、人々の暮らしぶりは今の私たちの文化につながっていることを知らせてくれる。計165枚から一部を紹介する。(社会部・城間有)(写真は全て朝日新聞社提供) 大正から昭和初め 那覇の市場 大正末から昭和の初めに撮影された那覇の市場。写真裏のメモには「左方の建物は肉市場(市設)」と書かれている。当時東町の旭橋付近に公設市場があり、魚や野菜、米、雑貨、焼物などが売られていた。肉市場は「シシマチ」と呼ばれていた。路面電車は、1914年から33年まで那覇市の通堂-首里間を走った「沖縄電気軌道」。人力車や

    「沖縄にはこんな風景があった」大正から昭和…よみがえる古里の姿165枚【写真特集】 | 琉球から沖縄へ 続よみがえる古里 | 沖縄タイムス+プラス
  • nix in desertis:高校世界史における中世・近世の「琉球王国」問題

    久々の高校世界史深堀りシリーズ。先日Twitterでこんなアンケートを取った。回答してくれた方々はありがとうございます。 ちょっと気になるので,アンケートをとってみたい。知っている人は知識で,知らない人は調べずにイメージでお答えください。 琉球王国の最盛期はいつ?(最盛期の定義が曖昧ということであれば,万国津梁の鐘の作られた時期をお答えください) — DG-Law/稲田義智 (@nix_in_desertis) June 3, 2020 正解は万国津梁の鐘の制作年が1458年なので,一番上の「1429年〜16世紀前半」が正しい。実際に琉球王国の最盛期はこの時期であるというのが一般的な認識であろう。後述の理由から正解者は少ないだろうと思っていたのでそこはあまり驚きがなかったのだが,こんなに綺麗に解答が割れたのは予想外だった。琉球王国の盛衰については,Call of Histroryさんの次の

  • 志村けん「変なおじさん」と沖縄戦 傷を引き受け生き抜いた人たち - 琉球新報デジタル

    志村けんさん=2006年、群馬県 「このおじさん、変なんです」「そうです、私が変なおじさんです」―。新型コロナウイルス感染による肺炎で死去した志村けんさんが生み出したキャラの一つ、「変なおじさん」。有名なこのコントのオチで使われていた歌「変なおじさん、だから変なおじさん♪」は沖縄のミュージシャン・喜納昌吉さんの代表曲「ハイサイおじさん」が原曲だ。明るく踊り出したくなるようなメロディーで高校野球では沖縄代表の応援歌としてアルプススタンドでも響くこの歌を掘り下げると、過酷な沖縄戦、戦後を生き抜いた沖縄の悲しさ、強さが刻まれていた。 「ハイサイおじさん」は喜納さんが中学生の時に作り、1969年、21歳の時に、沖縄民謡の大家だった父親、喜納昌永さんのレコードに収録したもの。「ハイサイ」とは沖縄の言葉で「こんにちは」。歌詞の内容は、酔っ払いのおじさんと少年の会話で、「おじさんのはげは大きいね」「おじ

    志村けん「変なおじさん」と沖縄戦 傷を引き受け生き抜いた人たち - 琉球新報デジタル
  • 一枚の写真が物語ること - 沖縄の孤児院で働いていた女性たち - 沖縄戦孤児と慰安婦 - Battle of Okinawa

    [ AI によってカラー化しています。] 【原文】 Life in Shimobaru, one of civilian camps established on Okinawa in Ryukyus by U.S. Military Government. Old ladies' home and orphanage. Maintained by Military Government and manned by ex-geisha girls. 【和訳】 下原での生活の様子。この地には、軍政府によって設置された沖縄島の民間人収容所の一つ。軍政府運営の老婦人用住居兼児童養護施設。ここでは、元「芸者ガールズ」(若い女性) が労役に従事していた。 撮影地: 下原 1945年 5月 10-20日 写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 沖縄県公文書館 ここに一枚の写真がある。 米軍が "e

    一枚の写真が物語ること - 沖縄の孤児院で働いていた女性たち - 沖縄戦孤児と慰安婦 - Battle of Okinawa
  • 「軍隊は人を守らない」という沖縄の教訓 (大田昌秀元沖縄県知事 ) - 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN

    沖縄戦を体験し、基地のない沖縄を、戦争を二度としない日を守るために尽力されてきた元沖縄県知事の大田昌秀さんがお亡くなりになりました。悲しくて、残念で仕方ありません。どれだけ大切な人を、私たちはまた失ってしまったのでしょうか。大田さんが生涯をかけて伝えてくださったメッセージを、忘れません。大田さんがDAYS JAPANに寄せてくださった言葉を、数回に渡り、お伝えします。 摩文仁の地で戦争体験について話 す大田昌秀元沖縄県知事。2014 年 5 月21日 Photo by Ryuichi HIROKAWA ①沖縄の戦争 「軍隊は人を守らない」という沖縄の教訓 沖縄はかつて、土防衛のための激戦地となり13万人以上の住民が犠牲になった。 大田昌秀氏は当時、学徒らで結成された鉄血勤皇隊として守備軍司令部のもとで任務に就いていた。沖縄最後の激戦地となり、大田氏が死を覚悟で戦火の海に飛び込んだ摩文

    irbs
    irbs 2017/06/13
    こういう声が、本当に届いて欲しい人たちの鼓膜を振動させたとしても心には届かない、というのが悲しい。
  • 沖縄1935 写真でよみがえる戦前:朝日新聞デジタル

    糸満の漁師や軌道馬車、活気ある那覇の市場 ––––。1935年に沖縄県で撮影された写真が、朝日新聞大阪社で大量に見つかった。沖縄の人たちの生き生きとした暮らしぶりを写しだす。太平洋戦争末期の沖縄戦によって10年後には破壊されてしまった光景が、沖縄タイムスとの共同企画で82年ぶりによみがえる。 写真の購入はこちら朝日新聞フォトアーカイブ

    沖縄1935 写真でよみがえる戦前:朝日新聞デジタル
    irbs
    irbs 2017/06/05
    祖母が11歳の頃。すげー
  • 読谷村史 第五巻資料編4 『戦時記録』 上

    <BODY bgcolor="#FFFFFF" text="#000000"> </BODY>

  • 沖縄ヘイト、国がつくる 「一水会」元顧問・鈴木邦男さん【インタビュー「土人」発言・13】 | 沖縄タイムス+プラス

    「土人」なんて言葉は僕らだって使わない。若い人がこんな言葉を使うことに驚いた。普通は使わないし、習うこともない。上の世代や警察幹部から、沖縄の人たちは「日全体のことを考えない」という趣旨のことを聞く中で、市民運動に対する憎しみから出てきたのだろう。憎しみをつくり出しているのは誰なのか。

    沖縄ヘイト、国がつくる 「一水会」元顧問・鈴木邦男さん【インタビュー「土人」発言・13】 | 沖縄タイムス+プラス
    irbs
    irbs 2016/11/06
    「…歴史を知れば誰だっておかしいと思うので、機動隊員が同情心を持ってしまっては困るということ…だからこそ、若い人に沖縄の歴史は教えない。国民全体が右傾化する中、沖縄との対立をつくり出しているのは政府」
  • 沖縄がアメリカに統治されていた時代の人々の暮らしがわかる写真(1953年 - 1954年) : カラパイア

    沖縄は、日が敗戦直後の1945年(昭和20年)から1972年(昭和47年)5月15日の沖縄返還までの27年間、アメリカ合衆国に統治されていたのはご存知の通りかと思う。 これらの写真は朝鮮戦争(1950年6月25日 - 1953年7月27日)で米空軍中尉を務めた後、沖縄に渡り人々の日常を撮影し続けたアメリカ人カメラマンが撮影した、1953年9月〜1954年8月にかけての沖縄の日常の風景だそうだ。

    沖縄がアメリカに統治されていた時代の人々の暮らしがわかる写真(1953年 - 1954年) : カラパイア
    irbs
    irbs 2016/10/31
    両親が小学生だった頃だ。母は自宅に灯りが無いので琉球政府ビル敷地の照明の下で勉強していたそうな/あとリウボウちっちゃくてかわいい
  • 総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)

    昭和19(1944)年10月10日午前7時30分、宮古島南方上空に見馴れない機影が編隊を組んで現れた。秋晴れの平良町上空でそれは東西に分かれ、飛行場方面と漲水港へ急降下する。間もなくサイレンが鳴り銃撃音、爆撃音がこだまして対空砲が応戦しても、友軍機の演習が実戦さながらに行われていると多くの町民が空を見上げていた。飛行場の方面から黒煙が舞い上がり、"銀翼連ねて"宮古島の空を守るはずの"荒鷲"が燃え上がるのを見て、ようやく物の空襲であることを知った。45分に及ぶ空襲で、島の3カ所の軍用飛行場からは応戦に飛び立つこともなく9機が撃破された。 続いて午後2時5分第2波、延べ19機による空襲で、漲水港沖合に停泊中の広田丸(2,211トン)が撃沈されるのを目の当たりに見せつけられた。この「10・10空襲」を皮切りに宮古島は連日のように米軍機の空襲にさらされ、瓦礫の島へと化していった。 昭和20(19

    総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)
  • 糸満盛信『唐手術の研究』『拳武雑考』について

    豚(サンドスター非所持) @shikishimatask ここで糸満盛信について改めて少し解説すると、1934年に『唐手術の研究』、1944年に『拳武雑考』という二冊のを出している。『唐手術の研究』については英訳されているらしいが『拳武雑考』はおそらく未訳である。 2016-02-02 12:49:23 豚(サンドスター非所持) @shikishimatask 糸満盛信は非常に幅広い分野のを出しており、1944年に『酒の話』という題で酒に関する著書、1965年に『天孫降臨私解』というタイトルで論文を書いている。人が空手をやっていたのかは不明だが、『唐手術の研究』にはヌンファー、コカンなど、現在は聞かない型のリストが掲載されている。 2016-02-02 12:52:32

    糸満盛信『唐手術の研究』『拳武雑考』について
  • 明治時代に撮影か 首里城内部撮影の写真見つかる NHKニュース

    かつての琉球王国の政治文化の中心だった首里城の内部を明治時代に撮影したとみられる写真が山形県米沢市で見つかりました。首里城の資料は、太平洋戦争の沖縄戦で多くが失われていて、専門家は「最も古い写真の1つで貴重だ」と注目しています。 博物館によりますと、沖縄県では明治14年からおよそ2年間、米沢藩最後の藩主だった上杉茂憲が現在の県知事にあたる県令を務めていたことから、写真が上杉家に伝わった可能性が高いということです。専門家は建物の傷みが少ないことから、明治12年に琉球王国が終わった直後に撮影されたとみていて、王国時代の首里城の面影を残していると注目しています。 首里城の復元作業に関わる琉球大学の高良倉吉名誉教授は「今までぼくたちが見た膨大な首里城関係の写真では最も古い写真の1つでしょう。特に初めて久慶門のやぐらを教えてくれる貴重な写真で、そのときにちょっとさすがに声が出ました。それぐらい感動

    明治時代に撮影か 首里城内部撮影の写真見つかる NHKニュース
  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

    「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ
    irbs
    irbs 2015/11/11
    「1441年、足利義教から島津忠国が琉球を賜ったとする説だが、琉球王国にはなんら関係ない話であり」/「しかし、この「短慮の企て」が現実的な計画となっていくのに、それほど時間はかからなかった」
  • 菅官房長官が選んだハーバービュークラブが最悪の選択である件(二追)

    ○菅官房長官が沖縄県知事と初会談をした場所は米軍の沖縄支配の歴史の象徴的意味を持つ場所。 ○アメリカ高等弁務官は琉球政府の行政首席をここに呼びつけていたことがある場所である。形式上、菅はそれに習い、沖縄県知事を呼びつけたことになる。 ○翁長氏もキャラウェイになぞらえたのはその形式を踏まえている。 ○はてブでドーベルマン刑事ってタグがついていたけどこれですね。当時高等弁務官というのがいかに嫌われていたかが分かります。 http://ameblo.jp/fghtew/entry-11412282562.html 続きを読む

    菅官房長官が選んだハーバービュークラブが最悪の選択である件(二追)
  • 琉仏条約、仏にも原本 「琉球は独立国」認識 - 琉球新報デジタル

    フランス側が保管している琉仏修好条約=2013年5月13日撮影、フランス・ヴァンセヌ市の海軍公文書館 琉球国が1855年にフランスと交わした琉仏修好条約のフランス側の原が、フランス・パリ東部に隣接するヴァンセヌ市の海軍公文書館に保管されていることが7日までに分かった。琉球国は前年の54年に米国と、59年にはオランダと同様の条約を締結した。 フランスを合わせた3条約の琉球側の原は現在、外務省外交史料館に保管されている。フランス側の原が確認されたことで、フランスは当時、琉球国が主権を持つ独立国家と認識していたことが裏付けられた。 フランス側の原は、フランス科学研究センター名誉教授のパトリック・ベイヴェール氏が確認、2013年に写真撮影した。 条約原の大きさは、外交史料館にある原(縦約36センチ、横約38センチ)とほぼ同じとみられる。表紙はなく全4枚で、漢文と仏文で書かれ、琉球王国の

    琉仏条約、仏にも原本 「琉球は独立国」認識 - 琉球新報デジタル
  • 「琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」鳥越 皓之 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    1879年、およそ四百五十年に渡り続いた琉球王国は日に併合(「琉球処分」)され滅亡した。滅亡後の琉球=沖縄は明治政府の支配下で伝統的共同体の崩壊と社会基盤の弱体化を招き、移民が認められた1900年代以降、大量の海外移民が送り出されていった。1940年の統計では海外移民のうち沖縄出身者は五万七千人、数だけなら広島・熊に次ぐ三位だが、県の人口比では広島3.88%、熊4.78%に対し沖縄9.97%でとびぬけて多い。全国平均で100人に一人が移民となったが、沖縄は10人に一人の割合であり、1920年代以降沖縄県出身移民は全国の移民の約20%前後を占めた。その中でもハワイへの移民が非常に多い。 書は著者が1970~80年代に行った、まだ存命の頃のハワイ移民一世~二世への聞き取り調査の記録と、琉球王国の滅亡から二十世紀初頭までの移民を押し出す要因となった社会的背景について描いた一冊である。

    「琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」鳥越 皓之 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 【日本の半独立国】会社統治領・大東諸島 - 歴ログ -世界史専門ブログ-

    Photo by 衛兵隊衛士 日にかつてあった「会社統治領」 沖縄県の東に浮かぶ大東諸島。 北大東島と南大東島、沖大東島から成り、人口は2,000人ほど。 主力産業はサトウキビ農業と近海漁業。 日列島はもちろん沖縄島とも離れた孤島で、島に行くには那覇から飛行機をチャーターするか、週1〜2便の定期船に乗り13時間かけて行くかしかありません。 ※訂正 上記情報が古かったようです。現在は琉球エアーコミューターによる飛行機の定期便が、那覇~北大東/南大東を結んでいます。 のどかなこの島は、かつて主権は大日帝国にあるものの、行政はすべて会社が行うという「会社統治領」の島でした。 島を統治する「玉置商会」 島を支配したのは、玉置半右衛門が創業した「玉置商会」。 半右衛門はアホウドリの羽毛の販売で巨万の富を築きましたが、乱獲のためアホウドリが絶滅すると、1900年に23人の八丈島からの移民を引き

    【日本の半独立国】会社統治領・大東諸島 - 歴ログ -世界史専門ブログ-
  • <社説>昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ - 琉球新報デジタル

    沖縄の運命を変えた史実は、十分解明されなかった。 宮内庁は昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。米軍による沖縄の軍事占領を望んだ「天皇メッセージ」を日の公式記録として記述した。 しかし、沖縄の問題で重要とみられる連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサーとの会見記録や、戦争に至る経緯などを側近に述懐した「拝聴録」は「見つからなかった」との理由で、盛り込まれなかった。編さんに24年かけたにしては物足りず、昭和史の空白は埋められなかった。 昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている。最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日防衛の「捨て石」にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか

    <社説>昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ - 琉球新報デジタル
  • 「アジアのなかの琉球王国」高良 倉吉 著

    琉球史の第一人者高良倉吉氏が、東シナ海の中継貿易で栄えた琉球王国の姿を、琉球王国誕生前の三国鼎立時代から十六世紀末にかけての時期を中心に描いた一冊。 この時代の琉球史・琉球外交史については大まかなところを以前「琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史」で書いたので、そのあたりの歴史については割愛して、特に当時の東シナ海沿岸諸国と琉球の密接な関係を表すエピソードを少し紹介してみる。 十五世紀の琉球が馬の産地で、明国の対モンゴル遠征で大量に馬が輸出され、その協力への報酬として、海禁政策によって海外に出られない明人に代わり、琉球が独占的に中継貿易を行うことが出来たことは書を参考として別記事でも紹介したが、そのような冊封体制下で、琉球は明国と非常に密接な交流があった。 その代表的な例が「唐営」という華人の共同体の存在である。当時、琉球に限らず、海禁政策によって故国に帰

    「アジアのなかの琉球王国」高良 倉吉 著