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図書館史に関するivory_reneのブックマーク (45)

  • 私立図書館の歴史的位置付けについて - 愚智提衡而立治之至也

    ご無沙汰をしております。 2月末から4月末にかけて,10000字の依頼原稿を書いていたため,更新が滞っておりました。原稿執筆にご協力いただいたみなさまには御礼申し上げます。依頼原稿は落とさず無事に提出したわけですが,これが無事に原型のまま掲載されるかどうかはまた別の話かも(^^;)。どうなりますやら。 少し休んだら,次の草稿にとりかかります。 閑話休題。 今年の1月にこんなことを書きましたが,上記の依頼原稿を書いているうちに少々問題意識が変化しまして,現在は「公」と「官」と「私」の関係と「図書館」,なかでも公共図書館と「公」「官」「私」をめぐる意識とか制度とか,について少し考えています。これは,このところ立て続けに建築関係の書籍を読んでいるからでもありますが,「公」と「私」が重層的に融合する「場所」について,であるとか,「公=官」ではないことと公立図書館が公共図書館に優越すると考えることの

    私立図書館の歴史的位置付けについて - 愚智提衡而立治之至也
  • 京都府立総合資料館|デジタル展覧会「先人達の京都研究」

    京都研究に尽力した人々について、それぞれの功績を著作等とともに紹介します。今では人名事典にも記載がないような忘れられた人物にも光を当てます。 1.平安遷都千百年紀念祭に関わった人々 明治28(1895)年は、平安京に都が遷されてから1100年目にあたり、これを記念して平安遷都千百年紀念祭が10月22日から24日にかけて行われました。 考証家としての博識を乞われてこの祭典に関わった人々の中から、田中教忠(勘兵衛)、碓井小三郎を取り上げます。また同じく考証家としてこの時代に活躍した高橋正意も併せて紹介します。 田中教忠(天保9(1838)年~昭和9(1934)年) 田中教忠(名、勘兵衛)は、呉服太物商の家に生まれました。明治維新後に家業を廃して以後は、名の勘兵衛よりも号の教忠を好んで使用しました。 商家に生まれながらも読書を好み、19歳の時に国学者の谷森善臣に入門し、国学、和歌、歴史等の教

  • 田中教忠 - Wikipedia

    田中 教忠(たなか のりただ、天保9年(1838年)-昭和9年(1934年))は、幕末から昭和にかけての商人・考証家。諱は勘兵衛、号は教忠。人はもっぱら号を用いた。 経歴[編集] 京都の呉服屋に生まれたが、子供の頃より学問を好み、国学者の谷森善臣に学ぶ。若い頃から家業よりも古文書・古典籍の蒐集と文献考察を好み、明治維新を機に家業の呉服屋を廃して学問に専念する。特に京都の歴史に関して精通しており、平安遷都千百年紀念祭にあたって『平安通志』編纂に参加した。 更に平安京遷都を行った桓武天皇を祀る神社の構想を唱え、後の平安神宮創建につながった。明治30年(1897年)、京都帝室博物館の開設時に学芸委員として招聘される。 没後、教忠の蒐集した古文書・古典籍は遺族によって保管されていたが、孫穣が国立歴史民俗博物館に寄贈し、田中教忠氏旧蔵典籍古文書あるいは田中穣氏旧蔵典籍古文書として公開されている(一

    ivory_rene
    ivory_rene 2012/04/28
    鹿島則泰との親交 via:日本における書籍蒐蔵の歴史/川瀬一馬 p189
  • 国立国会図書館所蔵小杉文庫について | NDLサーチ | 国立国会図書館

    電子書籍・電子雑誌参考書誌研究巻号(59)記事国立国会図書館所蔵小...国立国会図書館所蔵小杉文庫について 表紙は所蔵館によって異なることがあります インターネットで読む すぐに読む国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館所蔵小杉文庫について国立国会図書館永続的識別子info:ndljp/pid/3051497資料種別記事著者大沼宜規出版者国立国会図書館出版年2003-10-30資料形態デジタル掲載誌名参考書誌研究 (59)掲載ページ-すべて見る目次文 正誤表 書誌情報この資料の詳細や典拠(同じ主題の資料を指すキーワード、著者名)等を確認できます。 書誌情報を出力 デジタル資料種別記事タイトル国立国会図書館所蔵小杉文庫について著者・編者大沼宜規出版事項日 : 国立国会図書館出版年月日等2003-10-30出版年(W3CDTF)2003-10-30数量容量 : 59-04.pd

  • 帝国図書館の生き字引鹿島則泰 - 神保町系オタオタ日記

    篠田鑛造『明治開花綺談』の「牢内の阿辰弥太郎」に、帝国図書館の鹿島則泰が出てくる。 上野図書館の生字引といわれた鹿島則泰翁は、昭和十五年の春同館を勇退されたが、館内のあらゆる書籍に翁の呼吸のかからぬものはない。筆者はなにかにつけて翁をわずらわし、秘書の披閲に便利を獲ていた。今や翁同館を去られるについて、胸中一片の淋しみは、落花の夕にたたずむ心地である。 翁の先代は則文氏、号を桜宇、国学の大宗で安井息軒の門にも遊び、和漢の全籍に通暁し、朝典故に精しく、夙に勤王の士と交わり、皇室の式微を慨嘆する等、ついに幕府の嫌忌に触れて八丈島の流刑に処せられる。その裁断中、伝馬町の牢内に在り、青木弥太郎に推されて一番名主の畳の上に、読書吟咏の暗き日を送られたものと思う。 鹿島が昭和9年7月に開催された偽書偽作座談会の出席者であることについては、「書盗学者にして偽書作成者島田翰」参照。なお、同年10月1日現

    帝国図書館の生き字引鹿島則泰 - 神保町系オタオタ日記
    ivory_rene
    ivory_rene 2012/04/28
    鹿島則泰