cakesは2022年8月31日に終了いたしました。 10年間の長きにわたり、ご愛読ありがとうございました。 2022年9月1日
・「ほぼ日」のなかに「ただいま製作中!」という 社内のなんだかをなんとなく伝えてるページがあって、 昨日「ひさびさの道場」という投稿が載っていました。 そうなんです月曜日に「道場」をやってるんです。 これは、直接的には「ほぼ日の學校」の企画を出しあって、 あれこれ話し合うという主題でやっているのですが、 そこで発想力が鍛えられる練習のほうが大事なんです。 世の中では、大学や専門学校でデザインを学んだから デザイナーであるとか、写真を勉強したから写真家だとか、 たった数年の専門的な勉強をしたことが、 プロの資格みたいに考える人もいますが、 ほんとはそういうもんじゃないよなぁということを、 真剣にその分野のことを考えている人なら知っています。 まぁ「マラソンを走るのにいいシューズが必要」みたいな、 そういう知識や学びの体験はあったほうがいいでしょうが、 「アイディアをどんどん生み出す」みたいな
まさか吉本隆明が最後の最後にこんな傑作を残していくとは思わなかった。晩年のテレビ講演などを見ると、もうほとんど惚けているとしか思えない恍惚感まで浮かべていて、死ぬ前から著作物はもう期待されないだろうと思っていた。それがまさかのまさか。 亡くなる三か月前までの肉声を伝える、この本、「フランシス子へ」はすごかった。老人惚けのような語りと極限まで押し詰められた思念が一つの純粋な言語の結晶となっているのだ。語りがそのまま詩になっている。 吉本さんがこんな白鳥の歌を残していたんだと、読みながら、涙があふれてきた。それでいて、可笑しくて、笑いもこぼれる。こんな本ってあっただろうか。 タイトル、「フランシス子へ」というのは、「フランシス子」と名付けられた猫(ばななさんが命名した)の死に捧げたものである。吉本さんの死に先立つ九ヶ月前のことだった。16歳4か月だったという。猫としては高齢の部類では入っていた
正月ぼんやりとだが、「精神の速度」ということを考えていた。もはや遠く過ぎ去った時代のこととして吉本隆明「完本 情況への発言」(参照)をつらつらと読んでいるとき、三分冊本(参照)の二巻(参照)と三巻(参照)の後書きが、2008年の2月と3月とで同一のテーマとして「精神の速度」だったことに気がついたのが、きっかけだった。 「情況への発言」は分冊本の一巻が出たときに購入したが二巻は購入に失した。三巻はすでに宝島「情況へ」(参照)でカバーしていたので、私としてはいずれ二巻分だけ買えばよしとしてたが、完本もあってもよいかと思いなおして購入しておいた。 「情況への発言」は吉本隆明の同人誌『試行』の巻頭に連載されていた、その時点の政治状況への提言であった。結果として1960年代から1990年代の、あるいは昭和から平成の歴史も兼ねているともいえる。『試行』は直接購読以外に紀伊國屋書店でも販売されていて、私
⇒はてなブックマーク - 勉強をした方がいいと断言できる4つの理由 - keitaro-news - 書評から学ぶライフハック整理術 ⇒勉強をした方がいいと断言できる4つの理由 - keitaro-news - 書評から学ぶライフハック整理術 いろいろな分野が楽しめるようになるというのは、逆で、興味があれば自然に勉強して楽しめるようになることがあるということ。 仕事ができるようになるかは、仕事の質にもよって、勤勉さみたいなもののほうが仕事を支えていて、しかもこれはどうも生まれつき決まっているようだ。 友人が増えるかは普通に関係ないでしょう。 騙されないも、まあ、関係ないでしょう。 とま、ネガティブだけど。 初等教育のレベルの勉強のポイントは、さっさとズラかることですよ。教育関係の人たちと関わるのをさっさとやめること。 そのためには自分で勉強できるようになることだけど、その踏み台まででズラか
今日、NHKの教育で22:00~23:29に、ETV特集「吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」(参照)が放映される。いちおう録画予約を入れた。リアルで見ることはないと思うし、予約がこけることもないと思うのだけど、そうだな、ワンセグのほうでもダブルで予約入れておくかな。 戦後思想界の巨人と呼ばれ、日本の言論界を長年リードしてきた吉本隆明(よしもと・たかあき)さん。84歳になった今も、自らの「老い」と向き合いながら、思索を続けている。 吉本さんは、目が不自由になり読み書きがあまりできなくなった。足腰も弱り、糖尿病を抱えている。しかし、2008年夏、「これまでの仕事をひとつにつなぐ話をしてみたい」と親交のあるコピーライター糸井重里氏に協力を依頼し講演会を開いた。 とういこと。 かなりたぶん、この講演のころ出版された「吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜(吉本隆明,・糸井重里)」
(活字化のため削除) 吉本隆明はどうやって生計を立てていたのだろうと思ったら、44歳の時に著作集が出ていた。すごい。今なら福田和也だって著作集なんか出せないだろう。しかし、高橋英夫とか大笹吉雄とかも、どうやって生計を立てていたのか、と思う。 小田島先生は東大に勤めていても、官舎の四畳半に一家四人で住んでいたという。1960年代のことだ。今の人なら耐えられないだろう。その辺が、誰も餓死するわけでもないのに格差社会とか大騒ぎする連中がいる理由なのだろう。 (はっきり言わないと分からない奴がいるようなので書いておくと、経済政策論ならどうぞやってもらって構わんが、雨宮処凛のような感情論だけの馬鹿をあちこちで起用する愚を私は言っているのだ。澤地久枝が正しく指摘していたが、小林多喜二は泣いてほしくて蟹工船を書いたのではない。革命を起こすために書いたのだ) (小谷野敦)
⇒2008-08-09 - 南無の日記 ⇒吉本隆明という巨人 - 愚民の唄 - コンテンポラリィ・ユニットG これね⇒「 心的現象論本論: 吉本 隆明: 本」 おや読者評が妙に低いなと思ったら。 悪夢が再びー, 2008/7/23 By 柴風 (青森県弘前市) - レビューをすべて見る 本書は、吉本同伴知識人による、吉本TEXTの、商業主義的囲い込みの極致である。 山本哲士はかつて、「吉本隆明が語る戦後55年」と題し、「週刊読書人」紙上に掲載されたインタビューを水増しし、なんと1冊2千円もする本を12分冊で読者に売りさばくという、資本主義的大手出版社も顔負けの商法で、吉本思想を寡占しようとした輩である。 そして今度は、未刊の主著である「心的現象論」の本論を、なんと8400円という高値で売りさばこうというのである。新たに書き起こされたものではなく、過去に雑誌掲載されたものをまとめれば良かった
20世紀が「経済の時代」だったとすれば、21世紀のいまは「経済の次に来るものを探す時代」に入っています。これまでの世の中のあり方を見直す時期に来ているのかもしれません。 (2008年07月16日)
「出羽守」とは、「〜では」という表現をよく使う人を耶愉する言葉らしい。 出羽守 「アメリカでは」「日本では」の類。類似なものには「農耕民族は」「狩猟民族は」とかってのもある。 まぁ自分のポジションを知りたいという欲求やら、隣の芝の色やら気になるのは人の常だし、問題点を分析したいという欲求は理解せんでもないけど、 「〜では」という分析より、「俺はどうする」の方がはるかに大事 なんだよ。 原因や背景の分析は、物事を成功に導くためには大切なものだ。だからこそ分析に意味がある。 でもさ。それは「何かをする」ということが前提にあって意味があることで、分析ばかりしていても単なる評論家になるだけだ。もちろん評論家になって身を立てたいということなら、それはそれで結構なんだけど、そんなに評論家ばかり増えてもらってもね。 というか、何らかの「実行」を背景にしない分析は、結局「何もしないのが最良」という結論を導
⇒■ 好きな女性に彼氏がいることを知ってしばらくショックから立ち直れない。 完膚なきまでに振られるならまだ諦めがつくし気持ちの切り替えもできるけど、 「増田さんが良ければ今後も一緒にいてほしい」とか言うからかえって辛い一方。 確か、ルイ・エモンの「白き処女地」だったか、マリアがなぜ婚約したかというと、彼が先に言ってくれたから、みたいのがあった。 吉本隆明は80年代、女性には泥のようなニヒリズムがある、女性というのは男性を選択できないのではないか、とか、奇妙なことを言っていた。まだ、爺さん色気が残るころだったかもしれないし、それだ見ればトンデモネエなのだが、今でも自分にはぞっとした思いが残っている、というか。 それなりに青春から世間を見てきた。どうも女性のこの問題は、究極的に暗くて深い何かがありそうに思えてならない。 なぜその人を選んだの? にどこか奇妙に暗い深淵が潜んでいる。 それが人生の
橋本治は直感から本質をさらっと言ってのける頭の良さをもった人で、その直感から言い切りまでのプロセスを文章にするため冗長な印象もあるが、出てきた表明はコピーライティングのようにわかりやすいし、白黒つけやすい明快さがある。小林秀雄も直感から表出のプロセスを迂回して語る癖があり、表出も短く刈り込まれているため「人生の鍛錬 小林秀雄の言葉」(参照)のように断片的に理解しやすいところがある。だがそんなものは無意味で、依然小林秀雄の文学の全体を読めばその表明は白黒つけがたく明晰さには迷路の複雑さがある。体力というのでもないのだが思念の持久力のようなものがないととても読み切れない。 思念の持久力というものがどのようなのかというのは、「極東ブログ: [書評]小林秀雄の流儀(山本七平)」(参照)で触れた山本の論考が参考になるだろう。小林がどれほど聖書を読み抜き、パウロを心に秘めていたか、そこを読み解くことの
表題に釣られて読んだわけではない。表題が内容を反映していないとも言い難い。「高学歴男性におくる弱腰矯正読本 男の解放と変性意識(須原一秀)」(参照)は奇妙な本だった。面白かったかと言えば面白いのだが、一種の奇書の類でどう評価していいのかわからない困惑を覚える。いわゆる「トンデモ本」かというと、取りあえずはそうではないというぎりぎりの臨界の内側にあるようでいて、変性意識(非日常で狂気に近い状態の意識)というテーマを扱う学問的フレームワークがほとんど独断的に無視(著者は喝破のつもりかもしれない)しているように見える点ではトンデモ本と言っていいだろう。初版日付は2000年の1月31日。7年前だ。この7年の意味はもしかするとまた別のエントリで書くかもしれないし、もしかすると察しの良いコメントを頂ける可能性もゼロでもないかもしれない。 専門スジにはトンデモ本でしょうと言ったものの、そのスジの人、つま
私のように家族が閉じこもりでどこへも出ないとなると、いろいろな所に事情を話して出ていけない理由を説明しなくてはなりません。これが体の病気ならたいした説明はいらないけど、こころの問題で外出できないというのは、なかなか理解されなくて大変です。 「全然起きられないんですか。一日中寝てるんですか」 「たまには外出したほうが気晴らしになると思いますよ」 「そういうのは甘えじゃないですか」確かにこういうのは、自分や身近な人に経験がないと、なかなか理解するのは難しいのはわかります。自分だって、こうなる前に他の人から話を聞いたら、そう思うでしょう。相手がそれほど親しくない場合は、「医者が休ませたほうがいいと言ってます」でやれACだとかトラウマだとか難しい話をしないですましてしまいます。しかし、きちんと説明しないと納得してもらえなかったり、不信がられたりすることもあるので、それが悩みでした。 一時期は、そう
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