先週何人かの修論を見(てあげ)たのだが、外国語教育系の院生の修論のクオリテがえらい低い。はたして卒論は書いたんだろうか。いや、書いたからここにいるんだよな。。。 なにがやばいかっつうと、端的に言ってしまえば、方法論。まあ、リサーチクエスチョンの導出の仕方とか、先行研究の位置づけとか、他にも変なところはあるが、それは他の院生もおなじ。外国語教育系の院生に際だって目立つヤバい部分が「適切な方法論は何か」ということがちっともわかっていないということだ。 まずアンケートの使い方がめちゃくちゃ。多分アンケートなどという俗っぽい呼称を使うから誤解するんかな。「質問紙調査」なら堅くていいかんじ。質問紙調査ってのは、かなりつよい仮説が調査に先立ってある場合に、初めて使える方法。「とりあえず、ばらまいてみよ〜」的な気軽なノリでやっちゃだめでしょうに。そう言う場合はインタビューを使うの!普通は。あと、それにも
読書杉並区立・和田中。藤原和博・前校長の一連の教育改革手法で日本中から注目を集めてきた学校である。しかし、その注目の多くが、民間出身校長という存在や「よのなか科」「夜スぺ」「ドテラ」といった「新規な手法」に集中していたことも事実である。本書は、そうした「ハレ」の部分だけでなく、「ケ」にも光を当てる。「画期的な」カリキュラムの裏側にある、普通の日常。その「普通の公立中学」の側面を、「研究者」という第三者の目を存分に利用しながら、長期間にわたる調査(エスノグラフィー・インタビュー・アンケートなど)に基づき描出した好著。本書の第II部では、和田中の生徒がどう変わっていったか、すなわち和田中改革の特色をアンケート調査の分析結果にもとづき論じていた。しかし、執筆者の期待に反してか(?)、私には「画期的な改革をしても『変わらない部分』というのは意外なほど多いものだな」と映った。つまり、「子どもたちの不
■[医療]研修医は高収入である 10年くらい前に出版された医療業界本を読むと、大抵、「研修医の給与はスズメの涙」だの、「生活費を稼ぐために当直バイトに行く」だのと書かれている。 今や、研修医の給与は著しく上昇した。そうなった事情はここでは詳らかには述べないが、とにかく、病院から支払われる賃金が増えたのだ。 市中病院では年収500万円が相場だ。我が病院は360万円だが、献血と健診という二大副収入があり、合わせると、年収500万円はいく。これらは名目上はバイトではない。いったん病院側に派遣先からの報酬が入ってから、病院の給与の一部として振り込まれる。 技量、やっている仕事の内容からすると、もらっている金額はとんでもなく多いと言える。多くのポスドクが300万円行くか行かないかという給与に甘んじている中で、ポスドクよりもはるかに仕事ができない人々が、たかだか国家資格があるというだけで、200万円以
読書, 研究フェミニズム/ジェンダー論/セクシュアリティ論について私はほとんど知らないし、興味も「素人的興味」の域を出ないのだが、この本の理論編――つまり全14章のうちの最初の3章――を読めただけでも高い代金を払った価値があった。理論、いや厳密に言えば「方法論的構え」だろうが、それが非常に明快に提示されている。「言説分析」を謳う本や論文のうち少なくない数のものが、例えば「詳しくは、ミシェルフーコー参照...」などと曖昧に濁して通り抜けてしまいがちなところを、慎重に言語化している。その「理論」に裏打ちされた「覚悟」によって、4章以降の「歴史編」の非常に精緻な、それでいて(いい意味で)アクロバティックな資料の解釈が可能になっているのだなと感じた。いや、それにしても、著者がこの本を書くために読んだテクストの量は半端ない。オナニーの話をこんなに読んでいたら、私だったら興奮して××××(自主規制)、
■林達夫にかんする2、3の事柄 東京堂のランキングから外れたので更新。短い栄華だったぜ。それにしてもランキング10冊のうち6冊が入れ替わっている。激しいな>東京堂 前回2位だった田之倉稔『林達夫・回想のイタリア旅行』も消えてしまった。 ……と強引に林達夫に話を持っていって、前回書こうと思って書けなかったネタを少し。 えー、『〈盗作〉の文学史』装丁右端に「いはゆる剽竊」という文字が見えるかと思いますが、これ、林達夫の有名な論文の初出の新聞(『東京朝日新聞』1933年1月22〜25日)を図版として使ったものです。「いわゆる剽窃」は『林達夫評論集 (岩波文庫 青 155-1)』、『林達夫セレクション〈1〉反語的精神 (平凡社ライブラリー)』ほかに収録されています。 「盗作」「剽窃」というときによく参照される「いわゆる剽窃」だが、なぜこれが書かれたか、というのは意外と知られていないようだ。 林のこ
一部の(文化左翼)大学教員だけが空騒ぎして上滑っていたネグリ騒動や、堤未果『ルポ貧困大国アメリカ (岩波新書 新赤版 1112)』のビミョーな味わいや、『論座』や『世界』など左派論壇誌のしょーもなさなど、「サヨクってばホントに終わってんなあ」としみじみ思うことがここのところ続き、その「終わってる加減」についてべつに書きたくもないのに避けようもなく何度か書いたりすることになったのだけれど、するとなぜか怒る人が出てくるのだ。「どうして怒るんだろう、不思議だなあ」とピュアな瞳でそうした批判をつらつらと検分したところ、どうやら彼らが「サヨク」という表記にビビッとビビッドに反応しているらしいことがわかってきた。左翼思想をお持ちの方々を揶揄するための言葉と受けとめているご様子なのである。「下品だ」とかいわれるわけですよ。こちらとしては、「サヨク」が「左翼」から分化し定着した歴史をふまえて、上で挙げたよ
もし、何かの道で「本物」になりたいのなら、あるいは何かの道で成功したいのなら、まずは先達の真似をすることだ。例えばエンターテイナーになりたいのなら、マイケル・ジャクソンの真似をすることだ。サッカー選手になりたいのなら、ディエゴ・マラドーナの真似をすることだ。もし本物のショートストップになりたいのなら、オジー・スミスの真似をすることだ。真似をすると言っても、ただ真似をしていたのではダメだ。格好だけ上手に真似てみせたところで、そんなことには何の意味もない。いや、意味がなくもないのだが、それだけでは足りない。ここで言う「真似」というのは、その人自身になるということなんだ。自分という存在を一旦捨てさって、その人の中に入っていくということなんだ。それを、とことんまでやらないとダメだ。骨の髄まで真似ないとダメだ。その人そのものにならないとダメだ。格好はおろか、口癖や仕草、果ては性格や考え方まで真似ない
エンターテインメントでも芸術でもいい、もしあなたが何かを表現することで誰かを魅了したいと思うなら、まずは「どうすれば人を驚かすことができるか?」を考えることだ。なぜなら、「驚き」こそは、人間にとって最も重要な感覚だからだ。「驚き」は、人の心の鎧を取り除く(人の心を裸にさせる)。そして、その状態で見たものに、魅了されずにはいられない。生まれたばかりのヒヨコが、初めて見たものを親と思うようなものだ。驚きを与えられた状態で見たものを、人は一生忘れない。驚きとは、そういうものだ。驚きには、そういう力がある。なぜかは分からないが、驚きは、そういうシステムになっているのだ。 感動や感激は、いつだって驚きを伴う。例えば、ぼくの初恋は驚きを伴ったものだった。 クラスメイトの女の子が、ある時、髪の毛をバッサリと切ってきた。そのことに、ぼくは意表をつかれた。彼女は、それまで長かった髪を、本当にバッサリと、とて
面白いものを作ろうと思う時に、一番手っ取り早くしかも確実なのは、まず何よりも「真似をする」ことだ。これは、日本では不当に貶められている概念なので、知らない人も多いと思う。「今までにない」とか「全く新しい」とか「オリジナリティ溢れる」とかいう概念は、価値の高いものとして盛んにもてはやされている。その逆に、先達の作品にちょっとでも似たところがあったり、あるいはその影響が明らかだったりすると、「二番煎じ」だとか「パクリ」だとか「インスパイア」などと悪く言われる。マンガ家なんかの場合は、鼻の穴の描き方に似た特徴があったりすると、もうそれだけで亜流だの劣化コピーだのと言われてバカにされる。それで、「真似をする」ということに必要以上の抵抗を感じ、オリジナルであることにことさら固執するようになる人というのは、けっこう多いのではないだろうか。しかしこれは、全くバカげたことだ。なぜなら、そもそも本当の意味で
よく恐怖心を克服しろと言うけど、あれはあまり信用しない方が良い。むしろ仲良くした方が良い。飼い慣らした方が良い。真剣に向き合った方が良い。時には引きずられるくらいでちょうどいい。とにかく、恐怖心を心から追い出すようなことをしてはいけない。 将棋の羽生善治さんという人がいる。将棋界の巨人だ。この人の面白いエピソードがある。羽生さんは、勝負の終盤になると、時々手がぶるぶる震えることがあるそうだ。それも、自分の有利がちょっと見えた時に、そういうことが起こるらしい。ある時など、あまりにもぶるぶる震えるもんで、駒が持てなくなったりしたそうだ。 なぜそんなに震えるのか?ある時、インタビューに答えてこう言っていた。将棋の終盤、自分の有利が見えてくると、「失敗できない」という気持ちになる。将棋というのは、ちょっと失敗であっと言う間に逆転されてしまうからだ。そんな時、とんでもない恐怖心が沸き上がってくるのだ
美という価値観はとても強い。それはもしかしたら「面白い」よりも。 だから、もしあなたが何か本当に面白いものを作りたいのなら、美について強くなっておくと良い。それはきっと、面白いか面白くないかを判断する時の大きな助けとなるだろうから。 例えば二つのアイデアがあったとして、より面白い方を選ばれなければならないという時、どちらにするか迷ったら、迷わず美しい方を採るべきだ。それほどに美は、あらゆる価値観に通じるとても強い概念なのである。 そんな美を身につける一番簡単で、また最も有効な方法がある。それは、美しい景色を見ることだ。 「国家の品格」という本がベストセラーになった藤原正彦の書いた本に「天才の栄光と挫折」というのがある。これはもともとNHK教育テレビで2001年に放送された「NHK人間講座」の内容をまとめたものなのだが、この中で、とても印象に残った一つのエピソードがある。 この番組のために、
音楽, すごく役に立つ知識 「世界に一つだけの花♪」という歌は競争否定の共産主義礼賛の歌ですか? - Yahoo!知恵袋 「競争否定」だなんてとんでもない。この歌は、「お前らは『市場』の上で、身の程に合ったことやってりゃいい」、つまりネオリベラリズム礼賛の歌だ。 花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた冒頭でいきなり持って行かれる。いきなり「花屋」だ。どうして「野原」ではないのか。どうして「道ばた」ではないのか。 この歌は、これ以降最後まで、「花屋」を前提に展開する。それは、「市場」を強く意識しているに他ならない。 人それぞれ 好みはあるけれど どれもみんな きれいだねつまり、花たちは「花屋=市場」にいるからこそ「きれいだね」なのだ。「野原」「道ばた」のようなそもそも「市場=競争」から降りている花たちは、そもそも問題にされていないのである。 そして「人それぞれ 好みはある」のである
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く