前回取り上げたDECを買収したのが、今回紹介するCOMPAQである。同社の設立は1982年、創立者はRod Canion、Jim HarrisとBill Murtoという3人の元Texas Instruments(以下、TI)のエンジニア(当時はいずれも中間管理職)だ。 世界最初のIBM-PC互換機メーカー COMPAQ 3人は1981年末にTIを退職、IBM-PCの互換機ビジネスに乗り出す。Canion氏がCEO、Harris氏がSVP of Engineering、Murto氏がSVP of Sales&Marketingを担い、会長職には同社に最初の資金提供を行なったベンチャーキャピタルのBen Rosen氏が就いた。
業界に痕跡を残して消えたメーカーの第9回は通称DEC、正式名称はDigital Equipment Corporationを紹介しよう。 ちなみにアメリカでは、同業者には“Digital”で通用した。DECでは12月の略称になってしまうからだろう。 その後のCPUアーキテクチャーに 影響を与えたPDP-11 DECは、日本のユーザーを見ると大きく3つに分けられる。1つ目がAIなどの研究に携わり、Lispを使っていた人、2つ目がUNIXで、PDP-11や初期のVAXなどを使っていた人。古い話になるが、旧ASCIInetの初期のホストもVAX-11/780だったと記憶している。 そして3つ目が1992年以降のDECのPCを使っていたユーザーだ。おそらく人数としてはこの3つ目に属する人が国内では圧倒的に多いように思う。 DECは1957年、マサチューセッツ州のメイナードで設立された。創業者はKe
VAIO設立2周年記念のプレスツアーで安曇野本社工場を見学したついでに,「ゲームPC作って」とお願いしてきた 編集部:小西利明 長野県安曇野市にあるVAIOの本社工場 2014年7月に,「VAIO」のブランド名で知られたソニーのPC部門が,投資ファンドに譲渡されたことにより,「VAIO株式会社」(以下,VAIO)が独立したPCメーカーとして発足してから,早くも2年が経った(関連記事)。 世界的にPCの売り上げが減少している状況での船出とあって,先行きを危ぶむ声も少なくなかったが,同社の強みである高密度設計技術を生かしたハイスペックと携帯性,およびデザイン性を兼ね備えたノートPCの展開により,2015年度には黒字転換を果たすなど,厳しいPC市場の中でも健闘しているようだ。 去る2016年7月15日,VAIOは,40人を超える報道関係者を集めて,本社のある長野県安曇野市の安曇野工場にて「VAI
今回の「業界に痕跡を残して消えたメーカー」は、前回のGateway 2000の記事にも出てきた、Zeos Internationalを紹介したい。 Gateway 2000と違って、Zeos Internationalは日本には上陸していないので、案外に日本での知名度は低いかもしれないが、その昔にAT互換機を海外通販するなどでPC MagazineやComputer Shoppersを購読していた年配の読者の中には、記憶をお持ちの方もおられよう。 本当は名前をEosにしたかったが すでに存在していたのでZeosに Zeos Internationalは、1981年にミネソタ州で創業された。当初の社名はNPC Electronicsで、創業者はGregory E. Herrick氏。創業当時は、アマチュア無線向けのトランシーバーの部品などを通販するという電子部品ショップであった。 ただし、ア
CPU/GPUアップデートを数回挟んだので、久々の「業界に痕跡を残して消えたメーカー」編となる。今回はGateway2000を取り上げたい。 田舎くささを前面に押し出す 低コストのマーケティングでヒットを飛ばす! Gateway2000はもともとTed Waitt氏とMike Hammond氏(2015年没)が1985年に創立した会社である。創業した時期を考えると、同社はまだWaitt氏がアイオワ大学に在学中に設立されたようで、そのためかWaitt氏は結局学士を取得せずに終わっている(そういえばDell ComputerのMichael Dell氏も、結局学位を取得していなかったような気がする)。 そもそもWaitt氏はアイオワ州のSioux City(スーシティ)生まれ・育ちだったこともあり、会社もやはりSioux City郊外にあった父の農場に場所を借りてのスタートになった。ちなみに創
今回取り上げるのは、Osborne Computer Corporationである。企業としてはそう長く存続したわけではなかった(1980~1985年)。 そのうえ、製品は大きく言えば1つだけなのだが、同社の散り方はマーケティングのあり方に非常に大きなインパクトを与えたという観点で、欠かすことのできないメーカーだ。 出版社を売却した資金で コンピューターメーカーを創設 Adam Osborne氏(2003年没)は1972年、Osborne & Associatesというコンピューター向け書籍専門の出版社を作り、自身がそこでさまざまなコンピューター向けのマニュアル本を出版する。 彼はこのビジネスをうまく軌道に乗せ、最終的に1979年に大手出版社であったMcGraw-Hill Publishing Company(現S&P Global)に会社を売却することに成功する。 ただ彼はコンピューター
前回も触れた、Commodoreと死闘を繰り広げたというべき存在であるAtari。Atariそのものはゲーム機がメインであり、家庭用パソコンの市場に参入したのはかなり後になってからである。 とはいえ、この当時の家庭用ゲーム機とパソコンの間には、構造的には大きな差はなかった。家庭にゲームというものがゲーム機の形で入るかパソコンの形で入るのかという論争は今もって続いているわけで、昨今ではPS4やXbox Oneで参入するか、それともゲーミングPCが向いているのかという議論に近しいものがある。 以下の3項目が差別化の要因であり、これが大きく違わないと、パソコンとの間で激しい市場争いが起きることになる。 アーケードゲームが爆発的ヒット あのスティーブ・ジョブスを輩出 さてそのAtari、創業者はNolan Bushnell氏である。当初はSyzygy Engineeringという社名(会社登記はし
前回のTandy Radio ShackのTRS-80と同時期に市場投入されたのがCommodoreのPET-2001である。こちらもやはりパソコン創世期の話をするには、欠かせない企業である。 タイプライターから電卓、そしてマイコンに 業務転換して生き延びたCommodore Commodore Internationalは1954年にカナダのトロント市で創業した。創業者はポーランド人のJack Tramiel氏で、当初の名前はCommodore Portable Typewriter Companyとなる。 名前からわかるとおり、小型のタイプライターの製造を行う会社だ。元々Tramiel氏はアウシュビッツの生き残りで、ニューヨークでタクシー運転手やタイプライターの修理を行なっていたのが、たまたまチェコのある会社の設計するタイプライターを製造販売する契約を得て、トロントに移住。そこで創業し
今回の「業界に痕跡を残して消えたメーカー」はTandy RadioShackの話である。実を言えばRadioShack Corporationそのものは現在も存在しており、その意味ではまだなくなってしまったわけではない。 とはいえ、2015年には会社更生法の適用を受け、自社ブランドでのマイコン投入はかなり昔に足を洗っている。なにより創成期のマイコン市場には欠かせない会社だっただけに、そのあたりを中心に解説したい。 革製品と編み物とラジオを売る ハンドクラフト店がマイコンを販売 Radio Shackという会社そのものは1921年にマサチューセッツ州ボストンで創業された。会社というよりもアマチュア無線向けのパーツショップである。ただしその後ショップの数を9まで増やしたり、通販を始めたりということで次第に大きくなっていったが、1960年代には苦境に陥る。 画像の出典は、“Google Book
業界に(なんらかの)痕跡を残して消えたメーカーを解説する企画、前回がMITSだったので、今回はそのMITSを追いかけたIMS Associatesを取り上げたい。こちらはIMSAI 8080を製造・販売した会社である。 ソフト開発会社としてスタートした IMS Associates IMS Associatesは1972年にWilliam Millard氏が設立した会社である。もっとも1972年にはすでにIMS Associatesという名称でコンサルティングビジネスを開始していたものの、会社組織として公式に設立されたのは1973年で、それまではフリーランスでビジネスをしていたらしい。 もっとも会社組織といってもオフィスはMillard氏の自宅だったりするわけで、その意味では1973年は会社組織として登録した「だけ」でしかない。 IMS Associatesのビジネスは主にソフトウェアであ
モデルロケット関連機器の販売からスタートした MITS MITSという名前に聞き覚えはなくても、「Altair 8800」の名前を聞いたことがある人はいるはずだ。世界最初の“パーソナルコンピューター”である。 MITSは1971年、米ニューメキシコ州アルバカーキで設立された。創立者はEd Roberts氏(2010年没)とForrest Mims氏の2人。 Roberts氏はマイアミ大学で電気工学を学んでいたが、所謂「出来ちゃった婚」で生活費を稼ぐ必要があり、大学を中退して米空軍に入る。一方のMims氏はテキサスA&M大学でやはり電気工学を履修し、卒業後米空軍に入る。 結果、2人は米空軍の武器研究室でともに働くことになった。この武器研究室はニューメキシコ州のアルバカーキ国際空港に隣接するカートランド空軍基地内に置かれており、その後物理学研究室や宇宙飛行士実験室と合併してフィリップス研究室と
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く