十二支がいつ頃できたのか定かではないが、中国の殷の時代(紀元前17世紀頃〜紀元前11世紀)の遺跡から発見された甲骨文に、十干と十二支を組み合わせ60を周期とする六十干支(十干十二支)表があり、「日」を示す方法として利用されていたようである。 古代中国の天文学においては、木星が約12年(11.86年)で天球を1周することから、天球を西から東に12分割(十二次)し、毎年度における木星の運行/位置を示した(歳星紀年法。歳星は木星を指す)。 また木星は西から東に向かって移動するため、木星の反映とする仮の星「太歳」を設け、これが東から西に移動することにした。天球を東から西に十二分割し太歳の運行/位置を表わしたものを「十二辰」と呼び、各辰には十二支が名称として割り当てられた(太歳紀年法)。 その後、十二辰と十干と組み合わせて大歳が記録されるようになり、さらに後漢(西暦25年〜220年)時代に太歳と関係