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2011年1月1日のブックマーク (2件)

  • 十二支/干支の歴史

    十二支がいつ頃できたのか定かではないが、中国の殷の時代(紀元前17世紀頃〜紀元前11世紀)の遺跡から発見された甲骨文に、十干と十二支を組み合わせ60を周期とする六十干支(十干十二支)表があり、「日」を示す方法として利用されていたようである。 古代中国の天文学においては、木星が約12年(11.86年)で天球を1周することから、天球を西から東に12分割(十二次)し、毎年度における木星の運行/位置を示した(歳星紀年法。歳星は木星を指す)。 また木星は西から東に向かって移動するため、木星の反映とする仮の星「太歳」を設け、これが東から西に移動することにした。天球を東から西に十二分割し太歳の運行/位置を表わしたものを「十二辰」と呼び、各辰には十二支が名称として割り当てられた(太歳紀年法)。 その後、十二辰と十干と組み合わせて大歳が記録されるようになり、さらに後漢(西暦25年〜220年)時代に太歳と関係

    十二支/干支の歴史
  • 年賀状の歴史

    郵便 郵政資料館によれば、大化の改新が発布された西暦646年に政治的伝令書を届ける駅馬を置く「飛駅使」制度、また宮廷で年賀の儀式が始まっており、平安時代の儒学者藤原明衡(ふじわらのあきひら)が記した往復書簡形式の最古の文例集「雲州消息」(明衡往来)に年賀の手紙の文例が採り上げられているという。 戦国時代のものでは武将が記した年始の挨拶文が現存するほか、江戸時代にも飛脚制度の発達によって賀詞を記載した書状がやり取りされており、これらも保存されている。 一般的な普及は明治時代の「文明開化」から ただし一般には、年始の挨拶としては親族/知人宅を回り年賀の言葉を交わす「回礼」(年始まわり)が古くから行なわれており、書状によるものは略式と捉えられていたようだ。庶民への普及は、1871年(明治4年)の東京/京都/大阪を皮切りとする新式郵便制度の実施後、郵便はがきの登場にともなってという見方が有力で

    年賀状の歴史